昭和の電気工学者であり、八木・宇田アンテナの発明者として知られる八木秀次を紹介します。
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こんにちは。人からわかる3分技術史。
今日は八木秀次について勉強していきましょう。
八木秀次。1886年生まれ。昭和の電気工学者であり、八木・宇田アンテナの発明者として知られます。
八木は、明治19年に大阪で生まれました。
家は代々続く両替商の家系でしたが、明治の頃には没落していました。そこで八木には家の復興への期待がかけられ、家族の支援のもと、貧しいながらも高い教育を受けて少年時代を過ごしたと言われます。
1906年、八木は東京帝国大学工科大学の電気工学科に入学。そこで浅野応輔や、鳳秀太郎の指導を受け、電波に興味を持ち始めたといわれます。
1909年、大学を卒業した八木は、仙台高等工業学校の講師に就任。そこで存在感を発揮した八木は、東北帝国大学理科大学の本多光太郎の推薦を受け、ヨーロッパ留学に行けることとなりました。
はじめ八木は、ドイツのドレスデン工科大学の教授であったハインリッヒ・バルクハウゼンのもとで電磁波や変圧器の研究に従事。1914年に第一次世界大戦がはじまると、ロンドン大学のジョン・フレミングのもとに移り、研究を続けました。
そして1916年、30歳の八木は帰国すると、間も無く東北帝国大学工学部の教授に就任。国内有数の無線工学者として活躍をはじめました。
そのなかで八木が発明したのが「八木・宇田アンテナ」です。八木・宇田アンテナは、指向性のある短波無線通信用のアンテナであり、棒状のアンテナであるダイポールアンテナを並べて構成されています。八木の教え子である宇田新太郎との共同研究によって発明されました。
八木・宇田アンテナは指向性の高さと構成の単純さから、のちに家庭用のテレビアンテナとして広く普及しました。
その後、八木・宇田アンテナははじめ無線通信のために用いられましたが、戦争が近づく中で、レーダーといった軍事技術に応用され始めました。そしてイギリス軍のレーダーに八木・宇田アンテナが利用されていることが知られると、国内でも八木の評価は高まり、国内最高峰の工学者として知られるようになります。
そして戦時中となる1944年には内閣技術院の総裁に就任し、国内の軍事技術者の頂点に立つこととなります。
1976年、八木は89歳で亡くなります。戦後は公職追放が解かれたのち、政治家を志し1953年には参議院議員となりました。
現在においても、八木・宇田アンテナの発明者として知られています。
以上!
Негізгі бет 3分でわかる八木秀次【八木・宇田アンテナの発明者】
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