日本のコンピュータ開発のパイオニアの一人として知られる池田敏雄を紹介します。
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こんにちは。人からわかる3分技術史。
今日は池田敏雄について勉強していきましょう。
池田敏雄。1923年生まれ。昭和の電気技術者であり、日本のコンピュータ開発のパイオニアの一人として知られます。
敏雄は、大正12年の東京、両国に生まれました。
父親は薬屋であり、教育熱心な母親の指導のもとで敏雄は育ちました。
敏雄は幼くから数学に熱中し、その才能を示したと言われます。そのため初め数学者を志しますが、戦争のなかであったため技術者を目指すこととなり、1943年、20歳頃の敏雄は東京工業大学電気工学科に入学します。
1946年、大学を卒業した敏雄は富士通信機製造株式会社(現・富士通)に入社します。当時の富士通は電話交換機の開発を行うほぼ無名の会社であり、敏雄は戦後の就職難の中で、他の選択肢もなく入社したと考えられています。
敏雄の転機となったのは、1950年に富士通で計算機の開発がはじまったことでした。
この頃までに、朝鮮特需により日本の経済が拡大し、東京証券取引所で行われていた売買計算が人力では困難となりはじめていました。そこで敏雄の上司であった小林大祐は、株式計算のための計算機開発プロジェクトを立ち上げました。そのなかで敏雄は、中心メンバーの一人として開発を牽引していきます。その株式計算機自体は納品できませんでしたが、これ以後、富士通で計算機開発が本格化していくこととなりました。
そして1954年、敏雄と山本卓眞らによって開発された汎用コンピュータがFACOM100です。FACOM100では、回路素子に他国のコンピュータ開発で主流となっていた真空管ではなく、富士通の電話交換機に広く用いられていたリレーを採用。日本で開発された最初機のコンピュータの一つとなりました。
この後の敏雄は、FACOM200、FACOM241、FACOM230をはじめとしたコンピュータ開発を主導し、富士通のコンピュータ開発と日本のコンピュータ産業を先導していきました。
1974年、敏雄はくも膜下出血により51歳で急死します。現在でも、日本のコンピュータ開発のパイオニアの一人として、また、NECの水野幸男と並ぶ日本のコンピュータ産業の父の一人として評価されています。
以上!
Негізгі бет 3分でわかる池田敏雄【日本のコンピュータ開発のパイオニアの一人】
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