昭和の航空技術者であり、ゼロ戦の設計者として知られる堀越二郎を紹介します。
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こんにちは。人からわかる3分技術史。
今日は堀越二郎について勉強していきましょう。
堀越二郎。1903年生まれ。昭和の航空技術者であり、ゼロ戦の設計者として知られます。
堀越は、明治36年に群馬県で生まれました。1903年はライト兄弟が初の有人飛行に成功した年であり、飛行機の実用化が進むなか堀越は少年時代を過ごしました。
1924年、堀越20歳の折、東京帝国大学の工学部航空学科に入学。大学の同期には、生涯の友人となる木村秀政らがいました。
1927年に卒業後、三菱内燃機(現・三菱重工業)に就職。航空機設計の仕事を務めるようになります。
1931年、海軍の山本五十六少将らによる「航空技術自立計画」が立案されます。そのなかで、当時西欧の後追いとなっていた航空技術の自立を目指した最新軍用機として「七試」が発注されます。
当時の軍用機は、各社に競争させて優れた方を採用される方針となっていました。三菱は中島飛行機と争うこととなり、三菱側の「七試艦上戦闘機」の主任設計者に、29歳の堀越が抜擢されます。
堀越は複葉機が主流だったなかで、先駆的に片持ち低翼単葉型を採用しました。極めて先駆的な設計でしたが、満足のいく成果が出せず、不採用の結果となりました。
続く1934年、海軍は新たに「九試」として複数の軍用機を発注しました。再び堀越は、「九試単座戦闘機」の主任設計者となります。
九試で堀越は、布張りが多かった翼を金属張りとしました。また、世界で初めて沈頭鋲を全面に使うことで空気抵抗を軽減しました。
九試単座戦闘機は「九六式艦上戦闘機(九六戦)」として正式に採用され、1937年にはじまった日中戦争の初年において実戦投入されました。
それまで軍用機の戦いは、基地への奇襲攻撃が主でありました。そんななか九六戦は優れた格闘性能を発揮し、戦闘機同士の格闘戦という新たな戦術を生み出したと云われます。
そして1937年、「十二試」の開発が始まります。九六戦の成功により、海軍において戦闘機への期待がこれまでになく高まっていました。
三菱の十二試艦上戦闘機では、堀越を主任設計者に、曾根嘉年、東條輝雄ら30人ほどで設計が進められました。
そして1939年、十二試艦上戦闘機は完成し、正式採用され、「零式艦上戦闘機(零戦)」と名付けられます。定速回転プロペラ、剛性低下式操縦索などの新技術が導入され、第二次世界大戦期を通じて日本の主力戦闘機となりました。
堀越は1982年に78歳で亡くなります。戦後はYS-11など旅客機の開発に関与。しかし、特攻機としても使われた零戦の設計者として批判も多く、学者肌で融通の効かない性格から、敬遠されることもあったと云われます。
零戦は「ゼロ戦」の通称で広く知られ、堀越は現在においても、ゼロ戦の設計者として、また、日本を代表する航空機設計者として評価されています。
以上!
Негізгі бет 3分でわかる堀越二郎【ゼロ戦の設計者】
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