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9割が知らない!長年の偽作説を覆し国宝となった多賀城碑の研究成果と新事実
Күн бұрын
9割が知らない!長年の偽作説を覆し国宝となった多賀城碑の研究成果と新事実
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古代ずんだミステリー
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Пікірлер: 103
@saikoyuki335
2 ай бұрын
産まれてから小6まで多賀城に住んでいましたが、小学校でわたしたちの多賀城という本をもらいそれを見てから多賀城碑に興味を持ち毎月1回は見に行きました。碑文が魏志倭人伝の邪馬台国までの道程の表記に似ていたので邪馬台国の謎が解けるのではとか考えていたんですよね。子供なので。思い出の場所が国宝指定されて嬉しいです。
@chacha5033
2 ай бұрын
もう40年以上前になるけど、当時小学生だった頃この平川名誉教授が住んでいた近所にいて 教授(当時は教授ではなかったと思うが)のお子さん達と遊んだ記憶が‥‥‥ 多賀城跡とか廃寺跡であまり意味も分からず拾ってきた瓦の破片なんかを 平川教授に見せてて、平川教授は子供相手でも真剣に対応してた記憶があります
@mitolife3
3 ай бұрын
昭和40年代、幼稚園から小6まで多賀城に住んでいて、多賀城廃寺、多賀城碑、多賀城跡(政庁跡)、東北歴史資料館などが遊び場でもありました。 当時は歴史はもちろん史跡の説明文も理解できず、廃寺はハイジ(アルプスの少女)と関係ないのかな、壺の碑ってどこに壺があるんだろう、城跡なのにお城のイメージがわかない地味な景色だな、などと思っていました😂 (資料館は展示物、古いものを見るのが好きで発掘とかしてみたいなあと思うことがありました) 城跡と言っても天守閣のある城ではないことを知ったのはずっと後のことでした。 田んぼだったところを発掘調査している様子を見かけたり、住んでいるのが史跡の町であるというのは意味はわからなくてもなんとなく誇らしかった気がします。 恥ずかしながら多賀城碑の偽作説も国宝になったことも初めて知りました。 とても興味深く拝見し、子供時代の思い出も蘇りなんだか懐かしく嬉しい気持ちになりました。 ありがとうございました😊
@soramame2752
3 ай бұрын
やっぱ古文書の媒体は石が最強だな
@ohoyamato
2 ай бұрын
金石文は古文書と違って、写書を繰り返すと誤写が生じたり、写書者の常識と異なると書き換えられるなどのおしれがなく、原文そのものが残るね。 そういう意味では漆紙は金石文にも匹敵する。
@まつぼ-d1u
2 ай бұрын
22:25 こういう「技術の発達で新たな発見が可能になる」という可能性があるからこそ、文化財は現物を保管しないといけないんだよなあ…… 最近ニュースになった「文化財の保管場所がないのでスキャンした3Dデータにして実物は破棄します」なんて絶対やったらダメだと思う。
@nogisakurahinata46
2 ай бұрын
見に行ったことあるけどいざ目の前にして泣きそうになった 当時の人の様々な出来事が想像できてなんとも言えない気持ちになったよ 1000年以上前の碑文をこうして見られることに感謝
@roger0908haruhi
3 ай бұрын
仙台育ちで今も仙台在住だけど、失礼ながら多賀城は大きな道路と線路が通ってる場所という程度の印象しかなくて、歴史の授業で触れられても「なんであんなところが?」とあんまりピンと来ないまま素通りしてしまっていた。 けど大人になってから、特に攻め滅ぼされたりしたわけでもなくただただ忘れ去られるように風化してただの野っぱらになっていった時期の情景を思い描いてはエモエモのエモに浸れるようになった。森でも農村でもない本当にただの野っぱらだったそうだからなあ。
@norikosato7823
2 ай бұрын
仙台出身の67歳です。小学生のころ(たぶん1964年ごろ)父が多賀城跡へつれて行ってくれたことがあります。そのころは民家の間の細い道に立った案内板をたどっていくと、何の整備もされていない建物の礎石が並んでいるところにたどり着くと言う状況でした。高校生の時に歴史資料館が出来て、歴史の先生が1学期が始まってから急にそちらに転勤になりました。
@平時もんぴ
2 ай бұрын
長文やめてねじいさん
@norikosato7823
2 ай бұрын
@@平時もんぴ じいさんじゃなくてばあさんなのよ。名前読んでよローマ字よめるでしょ。
@英-q4q
2 ай бұрын
ほんとこの頃は多賀城のいろんな所で発掘作業がされていて発掘バイトがいっぱいありました。 建物を建てる際に遺構が出てくるパターンがあり結構な数が闇に葬られたとの噂もあります。 多賀城碑はそれはそれは雑な扱いを受けていた時期があり誰も見向きもしませんでした。 見直しの気分は地元の有志が拓本を採って学者に送ったからとの話も聞きました。 今は拓本は採れませんがなぜか家にはその時採った拓本があります。またその時の拓本は多賀城でおみやげで購入することができます。 取り上げて頂き大変感しております。
@起きた掃除-h3v
3 ай бұрын
この動画、東北歴史博物館の展示よりわかりやすいかも😊 多賀城に行った時に多賀城碑をみたけど、覆の外からではよく見えないし、当時は偽物かもしれないって言われてたから、軽く流してしまった。 今度行った時にはしっかり見たい。 江戸時代に発見されて偽物と疑われているものとしては志賀島の金印が有名かな?
@tana7779
3 ай бұрын
今回も面白かったです。
@あげまんじゅう
3 ай бұрын
10年ほど前に訪れたきりだったので、来年公開されたら是非見学したい。多賀城碑付近の風景が好きで長居した記憶が。現在東部道路から見えている朱色も鮮やかな建造物を、通る度ワクワクしながら眺めています。
@1tonkiraku73
3 ай бұрын
もう10年ほど前に多賀城趾を訪れ、今回の碑も格子越しにのぞきました。国宝指定喜ばしい限りです。 ずんだもんの動画はいつも発見と刺激に満ちています。これからも楽しみにしています。
@ちーづー
3 ай бұрын
多賀城跡は行ったことがあります 堀の跡などを見て夫がここは役所だったんだろうとか説明してくれました 市の文化センターにも伺い、色々見学させてもらいました 楽しかったです
@tosikazuonobayasi
2 ай бұрын
各石碑の周囲には破損や破壊を防止するため監視カメラと自動消火設備を設けて欲しいと思う。
@halmoriko2926
3 ай бұрын
こうして歴史を深掘りする動画を見ると改めて思う デジタルデータは後世に残らない物ばかりだと
@s.terund
2 ай бұрын
10年以上前息子に案内してもらい、碑文も格子越しに読めないながら?眺めてきました。案内の地元のボランティアの人が偽物だとも言われてますと、しかし言外に絶対本物だと自信を込めて説明してくれたのを覚えています。
@かにひなゆな
2 ай бұрын
多賀城が無くなってからかれこれ千年近く経つのに未だに名前が残ってたり、 発掘が進められたり、当時は相当な要所だったのね
@イトーヨーcard
3 ай бұрын
伊達政宗が 岩出山から本拠地を移す時に、古代から東北の中心地だった多賀城の近くを探して 仙台にした という説もあるからね🤔
@霜音のぐ
2 ай бұрын
なるべく当時の資材や工法に拘った結果、「ベンガラ不足」って言う理由で工期が延びちゃったの本当に好き
@tadanariiwase6636
3 ай бұрын
はぁ、喜田先生は何でも偽作、疑惑を撒き散らしましたからね。親鸞もいなかったことにされたし。今はあらかた論破されてますが、法隆寺再建論争のように彼が正しかったと証明されたものもあります。
@kiysug8328
2 ай бұрын
多賀城碑、ウチのすぐ近くなんだよ笑 ちなみに多賀城市は、この碑を中心に貴重な遺跡がたくさん埋蔵されていて、遺跡の上にインターチェンジや住宅地や田んぼがあったりするよ。 (遺跡を示す説明文もある) 「廃寺」と言って、名前が不明なお寺の跡も多賀城碑の近くにあるよ。
@お肉屋さん-m7q
2 ай бұрын
多賀城は「多賀」繋がりで、伊勢神宮外宮の多賀宮と関係があるような気がします。伊勢神宮領だった渥美町(現田原市)には渡会さん、渡會さんが多く、この地はかつて製塩が盛んだったことを踏まえると、塩釜神社も含めて深掘りすれば、ものすごいことが分かるような気がします。
@asucure4330
3 ай бұрын
仙台藩が作った偽物なら、それは別の意味で本物ではなかろうか
@kuz8075
2 ай бұрын
確かに!
@Tech-um3ur
2 ай бұрын
んだんだ。
@みっちゃん-j4r
3 ай бұрын
どうあれ 貴重な歴史なのだ
@masat1902
2 ай бұрын
今年の4月に多賀城跡に行きました。遺構は思ってたより小規模だったけど、1000年以上前にここで政務が行われてたんだな、と想像すると感慨深かった。あと多賀城に行く途中に偶然、多賀城碑を見た(存在を知らなかった)。いろいろ調べてると、非常に重要な碑で松尾芭蕉も見た、とのことで全体的に非常に実りの多い旅行になった。
@テイテイ-j6f
2 ай бұрын
ホントに「僕の故郷」の話なのすき
@がむ-p9i
3 ай бұрын
ビックリ太鼓SE削除要望の迅速な反映、感謝します🙏 他の効果音の音量も配慮を感じる。これで落ち着いて聞ける~!
@Q-Berry
3 ай бұрын
多賀城碑を知りませんでしたが今回も楽しめました~ エッサ、ホイサ、と発掘作業を頑張るずんだもんがカワイイw
@Harutoshi86104
3 ай бұрын
三大仏は1.2.は確定 3番目が岐阜か高岡かで選定が変る 三古泉(温泉)も3番目は2つ候補がある 三古碑も3番目の他に4番目も必ず書かれる いっそのこと四大にすればいいのに・・・
@鈴木貴司-t9p
3 ай бұрын
地元の近くです。 取り上げて頂きありがとうございます😊
@graygull771
2 ай бұрын
多賀城には和歌にも詠まれた、「末の松山」や「沖の石」なども見られる古代を感じる場所ですよねえ。
@鈴木一郎-x9p
Ай бұрын
昔々、大和国の北辺がまだ宮城県のこの辺りまでしか支配できていない時代の物語。ここから岩手県に北上して、砦のような役所のような舘を造ります。現在は再建されて観光地になっています😂 日本の国の成り立ちを学校でキッチリ教えないから、ほとんどの国民は知らない誠に残念😢 私は過去2回行きましたが、たしか東側に少し離れて国立?の歴史館があります。そこで拓本された小型の写しが販売されていましたよ。 興味があるなら是非見学をお勧めします🎉🎉❤❤
@Namamoji_
2 ай бұрын
今から五十年近く前のことですが、加瀬沼西側の斜面(森の中)、地中約60cm辺りに石畳が埋もれているのを見付けた事があります。 土器片も出ました。当時小学生の私は、こんなことに関わりたくないので、、、埋めてしまいました。 ずんだ文!゛ぜひ、加瀬沼の周辺を発掘してみてください👍
@nbtk193
2 ай бұрын
群馬の多胡ってきいて、タゴとタガって音似てるなってのと、多賀城跡の近所にちっちゃいけど謎のアラハバキ神社があって不思議なんよね。
@123syusai9
3 ай бұрын
先日多賀城を見学してきました。 「城」の字が付いているので、軍事施設(鎮守府)のイメージで捉えていたけれど、 実際に見て見ると、大宰府政庁や平城京跡の様な、役所だと理解しました。 南門のほとんどできていました。
@shiranui2
2 ай бұрын
9割が知らない!宝亀の乱 実は私もよく知りません。 仙台に単身赴任して直ぐの頃、多賀城跡を訪問しました。その時は地勢的な見方を重んじて現地を拝見しました。震災・津波のあとだったので、余計に「縄文の昔から何度も津波に襲われた経験から砂押川を遡上して中高知に政所を築いたんだろうか?鹽竈神社も同じか?」などと漠然と考えていました。「たかのき」と呼ばれていたのでしょうが、多賀(たか)は高に通じるようですし、「き」は、やはり「垣」でしょう。「垣」にはスサノヲの出雲八重垣の事例のように呪術的な意味があるのでしょう。茨城(いばら=棘のある植物の「垣」)などもそうでしょうが、呪術的意味は分かりません。さて、動画の中では多賀城は軍事的な砦などではなく「政庁舎」との扱いですが、後年蝦夷の襲撃を受けているようです(宝亀の乱)。 蝦夷との関係が悪くなるのは奈良朝廷側の原因も大きのではないかと思っています。(←関裕二氏の藤原氏悪人説の影響大) 話がそれますが、茨城県と東北地方では同じ地名が残っており、蝦夷に圧力を加えるために強制的に移住させたようですが、奈良時代頃にそれなりの人数をどこからどうやって(海路か陸路か)移動させたのでしょうか??万葉集ではみちのくから防人に就く人の歌なども残っているようなので、遠くへ赴任することが不思議ではないのでしょうが、具体的な旅行の記録などが残っていれば興味深いです。。
@TK-sf8rf
2 ай бұрын
おお、これは凄い!!俺の出身地だから嬉しいのもあるけど、古代日本の歴史にも影響するよなぁ。
@SM21338
2 ай бұрын
多賀城址に行ったことがありますよ。 当時をしのぶ物はわずかですが、「1000年以上前にここが東北の政治の中心だったんだ」と思うと、 なんだがロマンを感じますね。
@ohoyamato
2 ай бұрын
もう30年も前に見に行った。 新古今和歌集 巻十八 雑歌下 題不知 前右大将頼朝 陸奥のいはでしのぶはえぞしらぬふみつくしてよ壺の石ぶみ (一七八五) 前右大将は源頼朝のこと。 日本中央の碑も見にいった。 「石文商店」という店があった。隣の住民の名字が「石文」なら、明治以降名字が許されたときにの名字なら偽造説は否定される証拠の一つかな。
@ototoicomer
2 ай бұрын
多賀城跡は平成4年頃に行ったことがあります。それからこんなにも新発見があったのですね。いつになるかわかりませんが再訪したいです。
@pip3400
2 ай бұрын
全く関係ないけど高校時代原チャリで目的地に行くまでの最短が多賀城と利府の加瀬沼付近の旧道(?)でした 霊感無いと自認したたけどその道走るといつでも鳥肌立って気持ち悪いので、遠回りするようになったの覚えてます
@miamaka88
2 ай бұрын
大学生のころ授業の合間にふらーっと多賀城碑を見に行ったなー、 まだ何も整備される前だったし、碑文を上から読んでいって京からの距離とか道路標識かよとかつっこんで最近のものなのかなって思ってたわ 確かに周辺には古墳も多数あったし古戦場跡もあった、口伝を受け継いでた現地ガイドも居たし 今じゃ劇的に進化してていつの間にかJRの駅まで出来てたw
@古舘友通
3 ай бұрын
全然知らなかったけど、面白かった。発見の経緯があやふや、というから例の金印と似た感じか、と思ったけど後の展開はずいぶんと違うな。
@所詮男と女
2 ай бұрын
多賀城跡毎日見るレベルで通ってたけど見にいったことないなあ 住みやすかったからまた帰りてえなあ
@AKIHIKO-uz7wf
2 ай бұрын
多賀城は「京都を去ること一千五百里」「マツカツ=勃海を去ること三千里」の地に、724年に築城された。つまり、南京南海府~平安京~多賀城の間の距離感を、唐代の中国里(千里は540キロメートル)で、三千里(540キロメートル×3)と表記したものです。😅
@kuz8075
2 ай бұрын
宮城県民です。 ずんだもん、ありがとー!
@jsstyle7093
2 ай бұрын
小学生(昭和50年代)の頃 多賀城で、お堂があるので中を見たら石碑だったので な〜んだ石碑か(仏像とかではない)でもなんで? と思った記憶があります 後に国宝となる凄いものだったのですね
@okotarou1464
2 ай бұрын
太宰府も碑はあるけどあれは明治期のものみたい。本物はいつの間にか抜き取られてしまったとあるけど、巨大な石碑を抜いてバラすとかあるだろうか?どこかに実は多賀城碑みたいに埋まってたりしないか?あるいは砕かれてパーツがどこかに転用されたりしていないだろうか?
@tk_ohsaki
2 ай бұрын
「ばーちゃんが使ってた漬物石、たしかあの辺に埋めたよね」なんて話はありませんか?(笑)
@piu690
2 ай бұрын
ガチ地元です ありがとうございます
@kpuunya8880
2 ай бұрын
宮城県を舞台とする、まさにずんだもんの正しい使い方。
@TAUQAJHSQ
2 ай бұрын
このニュースがYahoo!に載った時のコメントで城南付近在住の人が多賀城碑付近で夜な夜な変な音がするって書かれて、それに同意する返信レスもあったので追跡しようとしたけど、ニュースが削除されて追い掛けられん。。 多賀城碑で何の音がするのだろう。
@makibikeisi
3 ай бұрын
多賀城の利久には行ったことがあるけど多賀城碑っていうのは知りませんでした 宮城県のこういうものって今だにゴッドハンドの人を思い出してしまって 本当に大丈夫?と疑ってしまうようにってしまいました💦
@犬飼隆-w9g
2 ай бұрын
「紫外線カメラ」たしかですか?「赤外線カメラ」では?
@しんやしんいち
2 ай бұрын
多賀城好き❤
@ufo19991
3 ай бұрын
1999年秋頃一度通りすがりに車で立ち寄った記憶があるが、畑の中に多賀城跡との看板があるだけだったような記憶しかない(◞‸◟)
@BB-er2zb
2 ай бұрын
多賀城市出身の俺が来ましたよ😀
@l-_-ly-o0
2 ай бұрын
古史古伝みたいなのに記録されてるのに決めつけで嘘だと言われてるのもありそう。
@ネコ侍-m9y
2 ай бұрын
水窪石もやってください
@aisuru-ren
3 ай бұрын
宮城出身か!笑
@nullgamer6631
3 ай бұрын
興奮してきたな
@underholdYT
3 ай бұрын
間違いないね
@朽木涼-d5j
2 ай бұрын
石とかだと炭素年代測定できないのね?
@WEBSTUDIO17
2 ай бұрын
ずんだもんは宮城県人ですね?
@adominojp
3 ай бұрын
懐柔って言葉は悪いな
@本能寺の変-c7m
3 ай бұрын
地元だ
@國立益美
2 ай бұрын
おお、ずんだもん、同県人かあ
@どどんぐり-h1k
2 ай бұрын
🎉🎉🎉
@surinngo4129
3 ай бұрын
みどり頭のマメは宮城産だったのた
@nyt7282031
2 ай бұрын
「ずんだ豆」って枝豆を指す仙台方言ですからね。
@piriodo.akichan.
3 ай бұрын
何で砂岩で作ったし?
@420ヨツオ
3 ай бұрын
宮城の考古学者…うっ、頭が…
@昭子-o1i
2 ай бұрын
神の手の話はよすんだ……
@日本人-h4n
3 ай бұрын
蝦夷地区!
@gsei5358
2 ай бұрын
東北の他県人から、極悪人とか言われる個性の強い仙台人なら偽作もありそうなんて思われたのかな。
@kuri-r5l
2 ай бұрын
日本中央 ひのもとちゅうおう かな。
@山田久夫-z1u
2 ай бұрын
多賀城は偽物 多賀城碑文は続日本紀と全く整合しません。 塞日本紀に依れば大野東人は神亀元年に按察使や鎮守将軍に任ぜられていない。名取以南十四郡から離れた賀美郡部内の多賀に有った多賀柵が多賀城に改修された城。 多賀城碑に記された西の字は、桃生城の西にあった城郭であるか西郭とも呼ばれていた。それを引用して西の文字を記したものと考えられる。 多賀は名取郡以南十四郡から離れた賀美郡に在った地名。それにも拘わらず名取郡近くから出土した事から、出土場所、碑文の虚偽が偽物の証拠である。 伊治城の座麻呂の乱後に国司等が多賀城へ逃げ込んだ事が記されている。伊治城から多賀城碑出土地までの距離は直線距離でも50Km、当時の一日の里程や40Kmであるから一日以上の行程であり、続日本紀の記述と合わない。栗原郡の伊治城から賀美郡部内の多賀城であったなら、半日以下の行程であり、続日本紀の記述と整合する。 弘仁六年の太政官符に多賀城は胆澤城、玉造塞と同列の辺境の城塞と明記されている。 古代辺境の城柵は近隣の百姓が農閑期に居る場所であるから城柵内に住戸遺跡が存在する。本当の多賀城跡は宮城県大崎市宮沢遺跡と推定される。 私は若い頃、多賀城跡発掘調査現場見学に行った事があり、発掘ゲートに多賀国府は何処に移動したかご存じ方、居られますかという張り紙を見た。 それ以後、多賀城について六国史、東鑑を読み込んだ。六国史全文を調べても多賀城が辺縁の城塞とあるのみであった。東鑑文治五年八月の条に突然、多賀国府なる文言が初出する。 発掘調査で文治五年以前に多賀城遺跡は廃絶されていた事が判明したため多賀城の移転先を疑問に思い、張り紙を掲示していたものと思われる。 六国史に依れば、多賀城は偽多賀城碑出土地ではなく賀美郡部内に存在し、且つ、陸奧国府ではない。 よって、東鑑文治五年八月の条は実在しない多賀国府の存在を記すことから、虚構であり事実を記録した資料ではないと言えるのである。 十訓抄に陸奧守の館は国衙から百町程の所にあったと記されていいるのを利用して、伊達陸奧守の居館から百町程の所に在る場所を国司が治めた多賀城跡とし、国府跡と吹聴したものと推測される。藤原秀衡陸奧守の居館が平泉に在ったとするなら、十訓抄とも整合したない。文治二年の頼朝奏上によれば、諸国の国衙、国衙雑事は先例に任せ勤仕する事か記されている。 つまり、平安時代末期の国衙体制が鎌倉時代に引き継がれた事をいみするのである。諸国の国司補任記録も平安時代、鎌倉時代を通して記録されている事から頼朝奏上は確かな物とカンがられる。多賀城碑を根拠とした多賀国府説により陸奧国の古代中世史は錯乱させられた。 どうぞ、六国史を熟読の上、反論をお願い致します。
@naobumi
2 ай бұрын
その説を唱える人の、性格の悪さを感じます。
@柳田力男-l4f
3 ай бұрын
多賀城って仙台藩より古かったって事? 多賀城って、伊達政宗の家臣が築いたお城跡だと思ってました😅
@sanaesato-b3x
3 ай бұрын
😅
@なしなし-v3q
3 ай бұрын
😨
@S_McQueen
3 ай бұрын
それはいくらなんでも…
@S_McQueen
3 ай бұрын
@@銀猫-u4z それは初耳だな、多分違うと思うが? 阿弖流為が本拠地の胆沢から軍勢率いて南下した記録ってあったかな?? 多賀城焼き討ちしたのは大崎周辺を中心にした蝦夷の部族長、伊治呰麻呂だと思う、その軍に阿弖流為が参加してたのかな?
@イトーヨーcard
3 ай бұрын
ご自身の名誉のために、このコメント💬は 消した方がよろしいかと…😰
Пікірлер: 103