大沢里で言い伝えられている
「しまのじろう の はたたていわ」
について、大沢里大城にお住まいの市川金男さんにお話を伺いました。旗立岩とは
建久年間(1190~ 1199)の話だそうです。もう少し詳しくお話しすると、
兵を上げる前に伊豆に流されていた源頼朝が兵を上げ、その結果平氏を破り、建久3年に征夷大将軍になったのでが、建久10年には落馬して死去しています。この頃のお話です。
先の戦いで敗れた平氏が西伊豆の松崎あたりから攻てくることがあったのですが、その防衛をしていたのが、「しまのじろう」です。その「しまのじろう」は大沢里の山の中に城を作り、そこを拠点にしていたため、この地域が大城と呼ばれています。
なにしろ、山の上なので、敵が来たことを簡単に知ることができません。そこで、平氏が海から来た場合、
1雲見の浅間神社にいた見張りがそれをみつけたら、現在の石切場にある「もろみ岩」にいる仲間に知らせます。
2知らせを受けた「もろみ岩」の見張りは次に冨貴野山の宝蔵院にいる見張りに連絡します。
3さらに、その知らせを受けた宝蔵院にいる見張は旗たて岩にいる見張りに合図を送り、
4旗たて岩にいる見張りが大城にいる見張りに旗を立てて敵が来たことを知らせます。
この様にして、やっと、「しまのじろう」が知ることできたと言うわけです。
それを実際に文献や過去帳を調べたり、猟をしながら山を歩いて気づいたことを今回聞いてきました。「しまのじろう」のお墓(宝篋印塔)はすでに廃寺となった宇波神社にありましたが、今は白川の山神社にあるそうです。大城に市川さんがお墓を移したいので頼みに行ったが断られたと言われてました。
また、面白い話もお聞きしました。宇波神社を取り壊した時に早い者勝ちで、壊した山門などを持っていって良いと言うことになったので、近くの白川の人は石の山門を手に入れられたが、遠くの禰宜ノ畑は遅かったので、山門が神社に今もないとのことです。
このほかにも、いろいろとお聞きしましたし、猪の解体もその時されていたので、その様子も含め、またの機会にご紹介したいと思います。
Негізгі бет 草いちごVol7 :西伊豆町 大沢里で言い伝えられている「しまのじろう の はたたていわ」の話を市川金男さんからお聞きしました。 「註」しまのじろうは 嶋ノ二良 と書き字幕の漢字は間違いだそうです。
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