セルジオ越後の衝撃のサッカー人生を振り返る、『蹴球一代記』。
今回は、ブラジルでの引退から一転、日本でプレーすることになった経緯を告白。
来日のキッカケとなった、ある人物の一言とは!?
■コリンチャンス(SCコリンチャンス・パウリスタ)
ブラジルの1部リーグに所属する、サンパウロがホームの名門クラブ。1910年の創立以来、コパ・リベルタドーレス優勝1回、カンピオナート・ブラジレイロ優勝7回、コパ・ド・ブラジル優勝3回、カンピオナート・パウリスタ優勝26回、FIFAクラブ世界選手権(現:FIFAクラブワールドカップ)優勝2回など、数々のタイトルを獲得してきた。過去所属した選手には、リベリーノ、ソクラテス、リバウド、ドゥンガなど、ブラジル代表のレジェンドが名を連ねる。
■ネルソン吉村(元日本代表)
ブラジル時代は、日系人のクラブ『グレミオ・レクラチーボ・トウキョウ』でプレー。俊足FWとして得点を重ねていた。1966年のAUSP(日系2世連合会)サッカーリーグで優勝、得点王となったことで転機が訪れ、AUSPの会長の紹介で1967年に日本サッカーリーグ初の外国籍選手としてヤンマーディーゼルサッカー部に加入。柔らかいボールタッチを生かしたボールテクニックは当時の日本では出色であった。また、1970年3月8日のIFKヨーテボリ戦で日本代表デビュー。国際Aマッチ通算45試合出場7得点を記録した。
■ジョージ小林(元日本代表)
ブラジル時代は、日系人で構成されたジェルパというクラブの一員としてプレー。吉村と同じく、AUSP会長の推薦で、吉村らにつぐ3人目のブラジル人としてヤンマーに加入。ストッパーや守備的MFとして活躍した。1972年にはブラジル国籍のままながら日本代表に特例として選ばれ、1月9日のハンブルガーSV戦でデビュー、ゲームメイカーとしてプレー。日本代表戦3試合に出場している。
■与那ジョージ(元日本代表)
沖縄県からブラジルに移民した両親の元で5人兄弟の末っ子として生まれ、ブラジル時代は、日系人リーグのグレミオ・レクラチーボ・トウキョウでプレー。1972年、日本サッカーリーグ2部所属の読売サッカークラブに入団。同クラブの1部昇格とその後のタイトル獲得の立役者として貢献し「ミスター・ヨミウリ」と呼ばれた。1985年に日本に帰化すると、当時の森孝慈監督の抜擢により1986 FIFAワールドカップ・アジア予選の最終予選2試合に出場した。引退後は指導者の道へ進み、1読売クラブや京都パープル酸が、ブラウリッツ秋田などで指揮している。
<関連動画>
※与那城ジョージ
1985 キリンカップ 読売クラブvs日本代表
• 1985 キリンカップ 読売クラブvs日本代表
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