映像作家の日記、その6
「NHKの登山ロケの下山中、スタッフが滑落して死亡」
ネットニュースで知る。ご冥福を心からお祈りします。
35年間、テレビカメラマンとして生きて来てロケ中に何度か死にかけた。
生と死は紙一重だと何度も実感した。今でこそ笑い話になるが、昔はコンプライアンスなんて概念は存在しない。今では考えられないようなことを平気で要求された。現場ではいくら無理な注文でも撮影の必要があるなら断るという選択肢はなかった。それを受け入れて、何が何でも撮影を成功させるしかなかった。肉体的な無理難題だけではなく、技術が伴っていないことを要求されることも。気合と根性と運で乗り切れることならまだいい。高い技術が必要なのに、それが備わっていないのに、その撮影を成立させなくてはならない時が一番辛かった。
私だけではなく、テレビカメラマンという生き物は、「出来ません」とは絶対に言えない習性なのだ。「出来ません」と言ってしまえば、「じゃあ他の人に頼みます」ってことになる。そこで道が途絶えてしまう。だからどんなに無理難題を言われても涼しい顔で「OK」って言うしかない。若い頃はそんなことの連続だった。常に背伸びして撮影していた。振り返れば、なんとかギリギリセーフで切り抜けて来て、気が付けばそれがカメラマンとしての実力になっていた。楽して終われるロケなどあっただろうか。常に今の自分の実力を越えようとして、一日一日が真剣勝負だった。
登山の番組もいくつか担当していた。癌で倒れる直前も白神山地に入って撮影していた。登山ロケでカメラマンに要求されるスキルはとてつもなく高い。スタッフの誰よりも体力がなくてはダメ。勿論、登山や山に対する知識は最低条件。登山家を追いかけてのロケならば、おそらくトータルの歩数は登山家の2倍以上だろう。カメラマンがばててしまったらロケは成立しない。本当にバカみたいな体力が要求された。
私は体力維持、特に持久力が必要なので、ロードバイクで仕事で必要な体力を作った。トレーニングのモチベーションを上げるために、ロードバイクでヒルクライムのレースにも参戦した。たとえば、平地から富士山の5号目までロードバイクで上るレース。一日200キロ近くを走るレース。おかげで、テレビカメラマンの中でも私の体力はずば抜けていた。体力的にどんなに過酷なロケでも乗り切ることが出来た。
「ロケのカメラマンはスーパーマンでなければならない」それが私の最低ラインの考え方だった。ロケに出て、すべてのスタッフが倒れても、カメラマンが無事なら撮影は続けられ、番組は成立する。だから、ロケ番組でカメラマンは最後の砦なのだ。そして、それが仕事に対するプライドでもある。当然、どんなに厳しい登山ロケであっても、カメラマンは無事に撮影を終えて下山しなければならない。
それが、癌で倒れるまでの私の姿だった。
でも、今は真っ直ぐにすら歩けない。あの頃を比べたら別人の体になってしまった。とても悲しいけど、テレビカメラマンとしてのプライドなどとカッコつけたことを言って、結果として体を労らず酷使した結果が癌に繋がったと今はそう思っている。
私の体は無理な要求に応えて、涙ぐましい程にに頑張ってくれていたに違いない。
私に少しでも体を思いやる気持ちがあれば、癌にはならなかったと、私は私の体に申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
ごめんな、私の体。
Негізгі бет 「初々しくて」仏隆寺彼岸花咲き始めの頃
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