#散歩写真スライドショー 、#高円寺 という駅名が気になって出かける。高円寺駅南口から商店街を見て歩く。東の坂道を下りる、途中に氷川神社がある。段丘崖線のようになって、傾斜地の先に高円寺はあった。参道の緑に癒やされて、少し狭い境内に入る。綺麗に整備されて、古刹の雰囲気はないが、銀杏の大木がある。撮影禁止と表示あり、遠慮しつつ見て回る。裏手は少し高く、森のようになっている。長い参道は広葉樹が茂っている。山門を出て、桃園川は暗渠、緑道になっていた。川を越えて、少し坂道を上がると、寺町のようになった。長善寺、凰林寺、長龍寺、宗泰院、松応寺、西照寺を見る。檀家以外の立入禁止とあり、気持ちが萎える。満開の桜が美しい。新高円寺駅から#ルック商店街 が続いて、古着屋が多く並んでいる。#パル商店街 から、#高円寺駅の北側の庚申通り に行って見る。庚申塔の裏、小さな喫茶店に入ると,おばちゃんが気さくに話しかけてきた。
#宿鳳山高円寺 、弘治元年(1555)中野成願寺3世建室宗正によって開山された曹洞宗の寺。本尊は観音菩薩像、室町期の作である阿弥陀如来坐像も安置される。かつて、周辺に桃の木が多く、桃園と称されて、本尊は桃園観音、寺は桃堂の名で呼ばれた。 5世耕岳益道の時、三代将軍徳川家光の知遇を得た。本堂裏の高台が「御殿跡」と呼ばれ、家光が遊猟のおり、立ち寄り休息した茶室跡といわれる。付近に「御殿前」の名称が残る。境内の茶園の名残も、家光の寄進と伝えられる。それまで小沢村と呼ばれた村名を「高円寺村」と改めさせたのも家光といわれる。寛保2年(1742)、弘化4年(1847)、明治33年、昭和20年と4度も罹災し、堂舎と共に古記録類を焼失した。門前を流れた川は「桃園川」と呼ばれ、水源は、天沼弁天池公園にあった天沼弁天の湧水、弁天池である。
桃園川、東京都杉並区、荻窪駅の北にあたる天沼弁天池公園付近より東へ流れ、阿佐ケ谷駅の北、中杉通りを越えて、谷を深くして南下。杉並区立けやき公園で中央線をくぐって、桃園川緑道となる。環状七号線を越えて、大久保通りと併走する。中野区を東へ横断して、東中野駅の南にある末広橋付近で、神田川に合流する。
#如法山長善寺 、日蓮宗。本尊は十界諸尊と日蓮聖人坐像。天正18年(1590)、円立院日義によって、江戸府内の谷中(台東区)に開創され、実蔵坊と称した。2世長善院日行の時、現在の寺号になった。5世日成の時に谷中本村(荒川区東日暮里)の地に移転した。近代に入り、国鉄線路拡張のため、大正15年、高円寺の寺町に移転した。昭和20年、火災で堂宇を焼失し、昭和34年再建された。本堂左手前、三十番神堂は「新編武蔵風土記稿」に、谷中本村の鎮守と記載されている。天保4年(1833)再建の古い建物である。法華経を守護する30体の番神が、祀られる。三十番神像が揃っているのは珍しい。また、十羅刹女像、毘沙門天像が安置されて、鬼子母神像や板碑も所蔵されている。
#瑞祥山凰林寺 、曹洞宗。本尊は釈迦牟尼仏。開創は永禄元年(1558)、江戸牛込御門外、舟河原(新宿区市ヶ谷、飯田橋駅付近)に草創、後に、吉祥寺(文京区本駒込)八世松栖用鶴大和尚(1630年歿)が開山し寺容を整えた。開基は旗本、荒川長右衛門重照(1657年歿)、中興開基は御蔵奉行、長田新右衛門房重(1693年歿)。寛永12年(1635)寺域が幕府御用地となり、牛込七軒寺町(新宿区弁天町)に移転した。明治末年弁天町通りが拡張され、280年を過した牛込より、大正3年、高円寺に移転した。明治7年に、新宿区西早稲田にあった夾山寺(吉祥寺末)が合併した。境内に、家庭和合を守る愛染明王、厄除け子育て延命地蔵尊を安置する。延命地蔵尊は行者、晴雲が願主となって、元文2年(1737)夾山寺に造立された「大石仏の地蔵」という。墓地に、幕末の医家、多賀谷楽山、書家画家、多賀谷向陵、酔雪、その門人の金井莎邨等の墓がある。太田蜀山人の師、内山賀邸も過去帳に名をとどめる。
#富聚山長龍寺 、曹洞宗。本尊は釈迦如来座像。文禄2年(1593)、心岩舜応和尚が、麹町四番町に開創した。元和2年(1616)寺地が御用地となり、市ヶ谷左内坂(新宿区市ヶ谷左内町)に移転した。寺名は、開山の玄室宗頓和尚の本寺である雲松院の、境内の池に住む竜が、偈を授けて小蛇と化し、捕えて寺宝したという。長隆寺を「龍」に改めた。江戸時代、開基である幕府御使盤の河野氏、油川武田家を主体とした旧武田家臣団、徳川の名門、松平十四家である滝脇松平家(世良田家)、朱鎗の名家、長坂血鎗九郎家、応仁の乱に西軍の将として有名な「山名宗全」の山名家、その他旗本、名家七十六家の菩提所で、代々の住職は朝廷より勅賜号を賜り、隆盛をきわめた。明治42年、陸軍士官学校の拡張で移転した。宝暦6年(1756)築造の本堂、元文2年(1737)建立の山門を移築した。地蔵堂に、山手二十八番第11番札所として著名であった豆腐地蔵尊(宝永5年、1708)が安置される。
#永昌山宗泰院 、曹洞宗。本尊は釈迦牟尼仏。嘯山春虎和尚が、天正12年(1584)、麹町表四番町(千代田区四番町)に草庵を結んだ。開山は小田原万松院の格峰泰逸和尚で、文禄2年(1593)、幕府から寺地の寄進を受けて、堂塔を整えた。元和2年(1616)、寺地が旗本の屋敷地と定められ、市ヶ谷左内坂に移転した。当寺の檀家は旗本、御家人、尾張藩士などの武家350家とその出入商人などで、本堂、開山堂、客殿をはじめ、武家檀家参詣のための供待ち部屋、槍小屋、馬小屋など、十六棟の伽藍を有する旗本寺として、隆盛を極めた。明治維新により、寺勢が衰え、明治20年代に復興し、明治42年、陸軍士官学校の校地拡張のため移転した。宝暦7年(1757)建立の本堂、寛延3年(1750)建造の開山堂は移築した。乳房を嬰児にふくませる木彫の「子授け地蔵尊」が安置される。
#万寿山松応寺 、曹洞宗。本尊は聖観音坐像(戦火で本尊釈迦牟尼仏を消失)。明暦2年(1656)浅草八軒寺町(台東区寿)に開創された。開山は大松寺(北区西ヶ丘)5世の悦州舜喜大和尚で、開基は雪岩長卯大和尚。山門の万寿山の山号は、江戸時代の書家、高玄融の筆。与力、同心など武家寺として栄えたが、墓地が狭小なため移転した。昭和20年の戦火で全焼し、詳細は不明。本尊は、禅宗様式の仏像で、藤原時代の様式を模した円満な顔立ちである。「農政本論」「経済要録」「開国要論」等の著者、江戸時代の農政学者、佐藤信淵(1850年歿)の墓がある。
#普明山西照寺 、曹洞宗。本尊は釈迦如来坐像。日比谷村の漁夫が海中より拾い上げた阿弥陀如来を安置した御堂を、天正2年(1574)、開山文竜和尚が開創した。寺域は武家屋敷地となり、慶長17年(1612)芝金杉(港区芝)に移転した。寛文5年(1665)、芝白金台町(港区白金)に移り再興した。 中興開基は岡田豊前守善政である。以来、代々岡田家の菩提所となった。観音堂、鐘楼堂等の堂宇も整え、江戸西方三十三観音の第26番札所となり、門前には町屋が並び賑わった。慶応3年(1867)、倒幕派の放火によって全焼したが、明治10年頃に復興した。明治20年、明治学院に入学した島崎藤村が寄宿したという。区画整理の対象となり、明治44年に移転した。室町時代末期の阿弥陀如来坐像、承応2年(1653)銘のとろけ地蔵、南町奉行所、山村良旺や書家、佐瀬得所の墓、江戸期建築の道了堂、心越禅師の山門額字書幅などある。
庚申塔は、江戸時代初期(寛永期以降)からある。当初は青面金剛や三猿像、阿弥陀、地蔵など主尊が定まっていないが、青面金剛像が、主尊の主流となった。後、江戸中期から後期にかけて「庚申塔」あるいは「庚申」と文字のみの形式が、増加する。
高円寺、大規模小売店舗は少なく、高円寺駅周辺は商店街が発達している。若者向けの衣料品、古着屋、雑貨店や、安価な飲食店、書店、古書店、ライブハウスなどが目立ち、休日に若者で賑わう。店の新陳代謝は激しいものの、老舗や名店も多い。1923年(大正12)創業の天名家総本店のみたらし団子「お狩場もち」は、江戸幕府三代将軍の徳川家光が鷹狩の途中に「宿鳳山高円寺」へ立ち寄ったという故事を由来にする。1960年(昭和35)創業の喫茶店「トリアノン」、東京の「沖縄料理の老舗」の一つ「抱瓶」、エスニックブームが到来する以前から、インド東南アジア雑貨店「元祖仲屋むげん堂」、カフェ文化の先駆け「Yonchome Cafe」など存在していた。
#ニコンD7500 レンズ18-140mm 使用する
Негізгі бет 江戸東京写真帳99:高円寺
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