全然違いますね。鎌倉幕府からの援軍六波羅探題、宇都宮貞綱が来る前に戦いは終わっています。話が飛躍し過ぎ。 元の目的はやはりMarco Polo の「東方見聞録」の影響が強かったと思います。要するに「黄金の国」しかしMarco Polo は日本には一度も着ていません。 この元寇の侵略に我が家の先祖も参加当時少弐家、武藤家(原性少弐)、竹崎家(菊地一族、菊地氏(阿蘇家親族))とは血縁だった関係で、(当時対馬守護代宗家とは江戸時代に姻族)我が家は少弐家(総大将少弐景資西方奉行一門手数500騎余名)の配下、元・南宋・漢民族(今の習主席の先祖)・高麗軍の連合軍でこの戦いの主力は高麗軍⇔元の奴隷国家高麗(今の韓国)軍。絵巻は最初は竹崎季長が記録として残していたが後に加筆元軍の攻撃図はなかったと思います。文永の役は今でいう10月の季節だから台風シーズンではない神風はない。弘安の役は季節的に6~8月 台風と言っても元軍が撤退するときに吹き荒れただけのようで敵の混乱に乗じて攻撃開始して敵側の沈没多数などあった由。神風は今でいう台風、神風を風吹したのは日蓮と朝廷。両役戦後武士団に対する報償がなかったのは財政的に困難であったと推定。武士団の中にも不平不満があったことは確かでもほとんどがあきらめ(笑)神風が吹いたから日本が勝ったと?!あれは後世の逸話の一端(日蓮と朝廷)戦いのときは殆ど吹いていなかったようで。最初の戦いの時には日本武士団にも戦傷者が多数出たようだが、相手の弱点を早くから関知して遠方寄りの長弓に因る作戦に変えた事と夜襲をかけて混乱に陥れた事、当時敵側には夜襲戦に対する防護経験が殆どなかった由。遠方寄りの長弓に対しては接近戦だと相手の短弓に毒が塗ってあり、刺さると弓死するからです。長弓での決戦後乗馬と歩兵で攻撃。博多地域の防塁壁は役立ったようで後世に絶対に残すべき。戦いに日本側が有利というのは土地地域を熟知しているのと元側は平坦な戦いにはめっぽう強いが山間や海岸・海上戦にはめっぽう弱い。元側の兵士のほとんどが高麗族、女真族、漢民族、南宋軍(貿易していたのかあまり戦いに乗り気がなかったよう)、元は主に将校、兵はあまり多くなかった由。捕慮が殆ど高麗人の驚き。元側高麗・漢民族は元同様きわめて残虐。対馬は殆どの町村落は全滅に近い。日本の捕虜は殆どが老弱男女幼児赤子。捕虜の手に穴を開けて縄を通して強引に連れ去り、退却するときは捕虜を海に突き落として逃げたのでそれを見た日本側武士団の怒りは相当なもの。だから元側資料の如く当時の鎌倉武士の命知らずの士気の高さと日本を外夷から守ろうとする武士団の士気です。それと上陸したのは対馬だけではありません。福岡博多など福岡にある島々のほとんどは上陸しています。鎌倉武士団の外夷から守ろうとする士気と北条時宗の25歳の若者の心意気です。
Пікірлер: 141