🟨②七深信の二つを親鸞聖人は化土巻【要門釈】に自力の深信として教えられる【就行立信は行に二種、正行と雑行あり】正行は憶念して絶えない無間修だが、雑行は常に間断するので疎雑の行と名ける【令和6年9月13日】
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2️⃣【レジメ資料】
🟥【原文】🟥
✨【深心】〖七深信の中の二つを要門釈に出される〗
🟨又、決定して「釈迦仏、此の『観経』に三福九品・定散二善を説きて、彼の仏の依正二報を証賛して、人をして欣慕せしむ」と深信すと。乃至
🟨又、深心の深信とは、決定して自心を建立して、教に順じて修行し、永く疑錯を除きて、一切の別解・別行・異学・異見・異執の為に退失傾動せられざるなりと。乃至
🟨次に行に就いて信を立てば、然るに行に二種有り。
🟨一には正行、二には雑行なり。
🟨「正行」と言うは、専ら往生経の行に依りて行ずるは、是れを「正行」と名づく。
🟨何者か是れや。一心に専ら此の『観経』『弥陀経』『無量寿経』等を読誦する。
🟨一心に彼の国の二報荘厳を専注し思想し、観察し憶念する。
🟨若し礼せば、即ち一心に専ら彼の仏を礼する。
🟨若し口に称せば、即ち一心に専ら彼の仏を称せよ。
🟨若し讃嘆供養せば、即ち一心に専ら讃嘆供養する。是れを名づけて「正」とすと。
🟨又、此の正の中に就いて、復た二種有り。
🟨一には、一心に弥陀の名号を専念して、行住座臥に時節の久近を問わず、念念に捨てざるは、是れを「正定の業」と名づく。彼の仏願に順ずるが故に。
🟨若し礼・誦等に依るを、即ち名づけて「助業」とす。
🟨此の正・助二行を除きて、已外の自余の諸善は、悉く「雑行」と名づく。
🟨若し前の正・助二行を修するは、心、常に親近し、憶念して断えず。
🟨名づけて「無間」とするなり。
🟨若し後の雑行を行ずるは、即ち心、常に間断す。
🟨回向して生を得べしと雖も、衆て「疎雑の行」と名づくるなり。
🟨故に「深心」(観経)と名づくと。
🟥🌠【註釈版解説】🌠🟥
✡️また深心の深信とは ➡ 高田派専修寺蔵宗・祖加点「散善義」では「また深心は深き信なりといふは」と読んでいる。
✡️自心を建立して ➡ 自分の心 をしっかりと定め、不動のものにして。ここでは自力の信を確立すること。
✡️疑錯 ➡ 疑いまどう心。
✡️別解・別行 ➡ 別の見解を持ち、別の行法を修めること。
🔶『一多証文」に「別解」の 語についての釈(六八八頁七行以下)がある。
✡️異学・異見・異執 ➡ 異なった教えを学び、異なった見解を持ち、正しい理に異なる思想・見解に執着すること。
🔶『一多証文』に「異学」の 語についての釈(六八八頁 四行以下)がある。
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🟦【意訳】🟦
✨【深心】✨
🟨また、 釈尊は観無量寿経に、 世福・戒福・行福の三福、 浄土を願うものの、それぞれの資質、 定善・散善についてお説きになり、
🟨浄土や阿弥陀仏、及び聖者たちをほめたたえて、 人々に浄土を求めさせておられるのであると、 疑いなく深く信じる。 (中略)
🟨また、 深信が深く信じる心であるとは、揺るぎなく、自分の心を定め、 釈尊の教えにしたがって修行し、 すべての疑いを離れて、 本願他力の教えと異なる、どのようなものにも、 退かされたり、動揺させられたりしない、ということである。 (中略)
🟨次に、 行について信を立てるのにあたって、 行には二種がある。
🟨一つには、正行であり、
🟨二つには、雑行である。
🟨正行とは、 専ら浄土の経典に説かれている行を修めることをいうのである。
🟨それは、どのようなことであろうか。
🟨一つには、読誦、 すなわち一心に専ら観無量寿経・阿弥陀経・無量寿経などを読誦することである。
🟨二つには、観察、 すなわち一心に専ら浄土や仏、及び聖者たちに心を集中し、 よく観察して、 思い続けることである。
🟨三つには、礼拝、 すなわち一心に専ら阿弥陀仏を礼拝することである。
🟨四つには、称名、 すなわち一心に専ら阿弥陀仏の名号を称えることである。
🟨五つには、讃嘆供養、 すなわち一心に専ら阿弥陀仏をほめたたえ、供養することである。
🟨この五つを正行というのである。
🟨また、 この正行の中に二種がある。
🟨一つには、 ただ一心に阿弥陀仏の名号を称えるのである。
🟨いついかなる時でも、 また時の長短を問わず、 念仏を行じるのを正定業という。
🟨それは阿弥陀仏の本願にしたがうからである。
🟨礼拝や読誦などは助業という。
🟨この正定業と助業以外のすべての行は、 みな雑行という。
🟨正定業と助業の二行を修めるなら、 心はいつも阿弥陀仏と共にあり、 思う心が断えないから、 これを無間修という。
🟨雑行を修める時は、 いつも心が途切れる。
🟨これを修めることによって、往生できるといっても、 すべて、 仏の本意にかなわない自力の行というのである。
🟨以上のようなことから、 深心というのである。
【終了】
Негізгі бет ②七深信の二つを親鸞聖人は化土巻要門釈に自力の深信と教えられる【就行立信は行に二種、正行と雑行あり】正行は憶念して絶えない無間修だが雑行は常に間断するので疎雑の行と名ける【令和6年9月13日】清森義行
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