長く続いた戦国の世を終わらせ、260年にわたる泰平の世を築いた徳川家康。その生涯の終わりを、現在の静岡市にあった駿府城にて迎えたことはよく知られています。家康にとって駿府は今川義元のもとで少年時代を過ごし五ヶ国の太守時代に本拠とした馴染みのある土地。将軍の座を息子秀忠に譲り隠居城として大改修された駿府城には、最大規模の天守が建てられ、徳川の本拠江戸を守るため東海道を攻め上ってくる西国大名があれば家康自らが盾となる覚悟もあったのでしょう。
家康が亡くなったのは大坂の豊臣秀頼を滅ぼして間もなくのこと。徳川家にとって最大の懸念を取り除いた直後の人生の幕引きは、まるで自らの寿命を知っていたかのようですね。しかしこのときの家康はすべてをやり切ってホッとしていたのではなく、次なる計画をひそかに立てていたようなのです。それは新たな隠居城を築くこと。
名古屋城や駿府城のような江戸を守る関門をさらに増やすということでしょうか、それとも自らの安らぎの場所を求めるためでしょうか。理由はわかりませんが、家康は駿府城を一門に譲り、別の地において徳川家を守ろうと考えていたのかもしれません。
この家康最後の隠居城計画の候補地となったのは、現在の静岡県三島市付近にある川のほとり。近くには東海道が走り、箱根山を背後に抱える交通の要衝です。富士の麓の広大な平野に駿府のような城が築かれていたら、このあたりに巨大な町が出現していたのかもしれませんね。
この隠居城計画は、残念ながら家康の死によって実現しませんでした。しかし天下人家康の心を動かしたのは、一体どのような場所だったのでしょうか。今回は有名な清流のほとりにあった小さな城、泉頭城に行ってみます。
Негізгі бет 【泉頭城】徳川家康最後の隠居城築城計画 実現すれば三大清流「柿田川」の畔に第二の駿府城が出現したかもしれない
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