能登半島地震で震度7を観測した石川県志賀町は、約1300年前に海の民・阿曇族の一部が福岡市東区志賀島から移り住んだのがはじまりとされています。阿曇族の氏神を祀る志賀海神社は縁のある被災地を支援しようと義援金を募っています。
◆海の民“阿曇族”1300年前に能登半島に渡った人々
今月11日、福岡市東区の志賀海神社では建国記念の日を祝う祭りが行われ、参拝客に紅白の餅がまかれました。志賀海神社は「龍の都」「海神の総本社」と称えられ、古代より海上交通の要である博多湾の総鎮守として信仰されてきました。宮司を務めるのは志賀島を本拠地として海運に携わってきた海の民、阿曇族の血を引く男性でなければなりません。現在は空席ですが、先代の甥にあたる幸興さんが継ぐことになっています。
志賀海神社 阿曇幸興禰宜「被災地の一日でも早い復興を強く願って玉串を納めさせていただきました。志賀島から旅立っていった阿曇族が拠点としていたのが志賀町と言われておりまして、志賀海神社の鹿角庫の中にも、加賀藩の戦国大名からも鹿の角の奉納があったという古文書が残っていたりして、とてもご縁のある地なのかなと感じております」
元日に発生した能登半島地震では、石川県志賀町でも震度7を観測、家屋が倒壊するなど大きな被害を受けました。先月末にようやくボランティアの受け入れが始まり、被災した住宅から壊れた家具などが運び出されました。志賀町は阿曇族と縁のある地です。約1300年前、一部の阿曇族が福岡の志賀島から対馬海流に乗って北上し、能登半島に定住したとされています。
◆かつては“同じ民族”いまも続く交流
志賀町を支援しようと志賀海神社は本殿の前に義援金箱を設置しました。
女性「志賀島も前に地震がありましたので大変だなと思って。人ごとじゃないっていう感じですよね」
「子供食堂に洋服とかおむつを持って行ったら被災地に送ってくれたりとかしたので、何かしら自分たちがちょっとできることをするようにして、一日でも早く被災地のみなさんが少しでも心穏やかに過ごされたらいいなと思って祈っております」
義援金箱設置の発起人は、志賀海神社の氏子たちです。
志賀海神社の氏子 小林出さん「志賀町との交流とか聞いていたもんですから、何かお役に立てればいいかなと」
2005年に発生した福岡県西方沖地震。最大震度6弱を観測し、志賀島では約750戸の建物が被害を受けたほか、志賀海神社も灯籠や狛犬が倒れたり、鳥居の一部が折れたりしました。
志賀海神社の氏子 坂本明さん「福岡の西方沖地震がありましたよね。石川県の志賀町から『疾風太鼓』って覚えてますけどね、来ていただいて、勇気づけてもらいましたよね」
石川県志賀町の住民らが披露してくれた無形文化財「志賀疾風太鼓」は、復興の支えとなりました。「その時の恩返しがしたい」、志賀島から志賀町への心からの思いです。
志賀海神社 阿曇幸興禰宜「被災地が少し落ち着いた頃に災害復興も含めて志賀島の方何人かと一緒に赴いて義援金を直接お渡しに伺おうかなと思っております。日常を取り戻して、また笑顔が絶えない日々を取り戻すことを願っております」
Негізгі бет 石川県「志賀町」と福岡県の「志賀島」1300年前に分かれた“同じ民族”~苦難の時に支え合う
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