この収録も、
1976昭和51年5月8日 代官山 小山亭
です。
馬生さんのアップが、前回好評のようなので、
上演順はさかさまになりますが、
こちらもアップいたします。
1952昭和27年に、銀座の旧電通脇の、
コリドー街につくった公開録音スタジオで
父のプロデュースで収録された秘蔵音源の
志ん生の『粗忽長屋』は、
すでに、ここにアップしてありますので
ことらもどうぞお楽しみいただければ幸甚です。
• 五代目 古今亭志ん生『粗忽長屋』 小山觀翁撰集
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10代目 金原亭 馬生(きんげんてい ばしょう、
1928年〈昭和3年〉1月5日 - 1982年〈昭和57年〉9月13日)は、
東京市出身の落語家である。本名、美濃部 清(みのべ きよし)。
来歴・人物
豊山第二中学校(旧制私立豊山中学校定時制)を中退した後、当時の中学生の憧れの一つであった予科練を志していたが、体調が悪化したことにより断念する。
腸の病気の発見がやや遅れ、駒込の病院で大手術を施された。
退院すると死生観の変化により予科練志願の心は消え、落語家になろうと思い立つ。
1942年8月、父・5代目古今亭志ん生に入門し、4代目むかし家今松を名乗る。当時は落語家が足りなかったため、二つ目として落語家人生をスタートさせた。
1944年頃、初代古今亭志ん朝と改名。1945年4月、終戦直前になって父・志ん生が満州慰問に出てしまったため、苦労を重ねる。
1947年1月、父・志ん生が帰国。同年には再び今松を名乗る。1948年に真打昇進し、古今亭志ん橋を襲名。
1949年10月、10代目金原亭馬生を襲名した。
父・志ん生からはあまり噺の稽古をつけてもらえなかったため、他の師匠から稽古を受けたり、独流で噺を練り上げたりすることで独自の芸風を磨き続け、三遊派・柳派両派のネタを多く持った。また、人情噺などのじっくり聴かせる噺に本領を発揮し、独自の芸風を確立した。
書画は本職並みで、酒仙でもあった。また、私生活では噺家らしく和服を貫いていた。志ん生の長男である馬生が「志ん生」の名跡を継ぐのが筋であったが、弟・3代目志ん朝に継がせたい父・志ん生の意を汲み、「志ん生」の名跡は弟・志ん朝に継がせると父・志ん生に申し出ていた。
1969年、芸術選奨新人賞を受賞。1973年には文化庁芸術祭優秀賞を受賞する。
1978年から1982年まで落語協会副会長を務めた。
1982年9月13日、食道がんのため死去。54歳没。
出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』
Негізгі бет Музыка 十代目 金原亭馬生『粗忽長屋』 小山觀翁撰集
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