秋蛇星短編映画製作所 20210826 制作#紫電改#九七式戦闘機#特攻隊#離陸#takeoff#飛行場
神風特攻隊『白鷺隊』が最後に見た光景を再現!鶉野飛行場 離陸(兵庫県加西市)
【脚本】
鶉野飛行場とは
姫路海軍航空隊鶉野飛行場は、第二次世界大
戦が悪化しはじめた頃、優秀なパイロットを
養成するため、昭和18年に完成した旧日本海
軍の飛行場跡だ。
飛行場の建設に伴い、昭和18年10月には姫
路海軍航空隊が開設され、同時に航空整備、
兵科、運用、主計、航海、機関、通信、工
作、兵器、砲術、医務等の兵隊が在隊していた。
また、飛行場跡の南西には、川西航空機姫路
製作所鶉野工場があり、「紫電」「紫電改」など
500機余りの戦闘機が組み立てられた。
当時、航空隊には、10代を中心に若者が全国
から約500名集められ、ここで30時間の飛行
訓練を受けた後、各航空隊へと散っていった。
昭和20年には、練習生による神風特攻隊「白
鷺隊」が編成され、終戦までに63名の尊い命
が失われた。現在も、飛行場跡の周辺には防
空壕の跡など生々しい戦争の爪痕が見られる。
場所 兵庫県加西郡九会村、下里村(最寄駅
国鉄北条線「法華口駅」)
航空隊開設 昭和18年(1943年)10月
完成年月 昭和19年(1944年)5月
面積 2,531,040㎡(甲子園球場約70個分)
滑走路 1,200m×60m 1本・1,500m×60m 2本
運搬路 当初8,000m×30m 終戦時
15,000m
掩体壕 55ヵ所(内訳 大10ヵ所 小45ヵ所)
使われた飛行機 中、小型練習機
格納庫 木造 9,157㎡(奥行30m×幅
130m)2棟
兵舎 8919㎡(庁舎・講堂・工業場・送信
所・居住施設・倉庫)
給水設備 井戸2ヵ所(各150トン)
ろ過設備 稲荷山
電気設備 動力100kw 照明120kw
ガス設備 なし
自力発電所 2ヵ所
電波探信儀 1ヶ所
機銃陣地 5ヶ所
歴史
昭和17年(1942)9月 鶉野飛行場の建設
が始まり、鶉野・中野・宮木の家と九会国民
学校が立ち退きになる。
昭和17年(1942)9月 川西航空機が鶉野
で飛行機組立工場を準備する。
昭和18年(1943)3月 飛行場の建設工事
が始まる。
昭和18年(1943)10月1日 姫路海軍航
空隊ができる。練習生や教官、教員が来る。
昭和18年(1943)10月8日 初めて鶉野
に飛行機が降りる。練習が始まる。
昭和18年(1943)10月 川西航空機姫路製
作所で飛行機の生産が始まる。
昭和20年(1945年)2月 特攻隊の希望者を
募り選ばれ、「白鷺隊」の名前がつけられる。
昭和20年(1945年)3月 戦闘機「紫電改」
の生産が始まる。
昭和20年(1945年)3月19日 初めて加西
郡に空襲があり、飛行機が燃える。
昭和20年(1945年)3月31日 国鉄北条線
網引駅西方で飛行機の不時着による列車脱線
事故が発生。死者が多数でる。
昭和20年(1945年)
4月6日~5月4日 神風特別攻撃隊「白鷺
隊」が鹿児島から5回出撃して63名の若者が
戦死する。
昭和20年(1945年)7月24日 加西郡で第
2回目の空襲があり、一般の人も被害を受け
る。
昭和20年(1945年)7月30日 加西郡で第
3回目の空襲がありさらに工場や周辺の家も
被害を受ける。
昭和20年(1945年)8月6日 広島に原子
爆弾が落とされる。
昭和20年(1945年)8月
9日 長崎にも原子爆弾が落とされる。
昭和20年(1945年)8月15日 ポツダム宣
言を受け、戦争は終わる。
昭和24年(1949年)11月 飛行場跡地は食糧
増産のため田畑となり、滑走路は国の土地と
なる。
平成28年(2016年)6月 滑走路は国からの
払い下げにより加西市の土地となる。
1945年7月26日、英華米の3か国(のちにソ連
も参加)はポツダム宣言を発し、日本軍の無条件
降伏を要求した。日本政府は、日ソ中立条約があ
るソ連に和平講和の仲介を託していたが、8月6
日に広島市に原子爆弾が投下され、8月8日未明
にソ連対日宣戦布告、8月9日に広島市に続き長
崎市にも原子爆弾が投下されるという重大な事
態が続いた。
8月9日午後11時50分(10日午前0時3分から
行われたとの文献もある)から行われた御前会議
での議論は、東郷茂徳外相、米内光政海相、平沼
騏一郎枢密院議長は、天皇の地位の保障のみを
条件とするポツダム宣言受諾を主張、それに対し
阿南惟幾陸相、梅津美治郎陸軍参謀総長、豊田
副武海軍令部総長は「受諾には多数の条件をつ
けるべきで、条件が拒否されたら本土決戦をする
べきだ」と受諾反対を主張した。
しかし唯一の同盟国のドイツの政府は無条件降
伏し、イギリスとアメリカ、オーストラリアやカナダな
どの連合軍は本土に迫っており、さらに唯一の頼
みの綱であった元中立国のソ連も先日の開戦に
より日本領土へ迫っており、北海道上陸さえ時間
の問題であった。ここで鈴木首相が昭和天皇に発
言を促し、天皇自身が和平を望んでいることを直
接口にしたことにより御前会議での議論は降伏へ
と収束し、10日の午前3時から行われた閣議で
承認された。
日本政府は、ポツダム宣言受諾により全日本軍が
降伏を決定する事実を、10日の午前8時に海外
向けのラジオの国営放送を通じ、日本語と英語で
3回にわたり世界へ放送し、また同盟通信社から
モールス通信で交戦国に直接通知が行われた。
また中立国の加瀬俊一スイス公使と岡本季正ス
ウェーデン公使より、11日に両国外務大臣に手渡
され、両国より連合国に渡された。しかしその後も
日本政府と軍内部、特に鈴木首相や東郷外相ら
と阿南陸相ら陸海軍の上層部内で意見が紛糾
し、御前会議での決定を知らされた陸軍省では、
天皇の元の会議で決定されたにもかかわらず、徹
底抗戦を主張していた多数の将校から激しい反
発が巻き起こった。
10日午前11時からソ連大使館側の要請によって
貴族院貴賓室において東郷外相とヤコフ・マリク
駐日ソ連大使の会談が行われた。その中で、マリ
ク大使より正式に対日宣戦布告の通知が行われ
たのに対し、東郷外相は「日本側はソ連側からの
特使派遣の回答を待っており、ポツダム宣言の受
諾の可否もその回答を参考にして決められる筈な
のに、その回答もせずに何をもって日本が宣言を
拒否したとして突然戦争状態に入ったとしている
のか」とソ連側を強く批判した。また10日夜にはソ
連軍による南樺太および千島列島への進攻も開
始された。
なおポツダム宣言は日本政府により正式に受諾さ
れたものの、この時点では日本軍や一般市民に対
してもそのことは伏せられており、さらに停戦も全
軍に対して行われておらず、それは連合国にとって
も同様であった。つまり10日の午前8時の日本政
府のポツダム宣言受諾より、玉音放送、つまり日
本軍戦闘停止の命令が下る15日正午までの5日
間の「日本陸海軍の為の敗戦調整期間」に亡く
なった両軍の戦闘員と民間人は、「無駄死」といわ
れることがある。
12日午前0時過ぎに連合国はアメリカのジェーム
ズ・F・バーンズ国務長官による返答、いわゆる
「バーンズ回答」を行った。その回答を一部和訳す
ると「降伏の時より、天皇及び日本国政府の国家
統治の権限は、降伏条項の実施の為其の必要と
認むる処置を執る連合軍最高司令官に『subject
to』する」というものであった。外務省は「subject
to」を「制限の下に置かれる」だと緩めの翻訳、解
釈をしたが、参謀本部はこれを「隷属する」と曲解
して阿南陸相に伝えたため、軍部強硬派が国体護
持について再照会を主張し、鈴木首相もこれに同
調した。
13日午前9時から行われた軍と政府の最高戦争
指導会議では、「バーンズ回答」をめぐり再度議
論が紛糾した上、この日の閣議は2回行われ、2回
目には宣言の即時受諾が優勢となった。しかし1
日以上経っても「バーンズ回答」に対して日本政
府側からの回答がなかったため、アメリカ軍と政
府では「日本の回答が遅い」という意見が起きて
おり、13日の夕刻には日本政府の決定を訝しむ
アメリカ軍が、東京に早期の申し入れと「バーンズ
回答」を記したビラを散布している。
さらに日本政府はポツダム宣言受諾の意思を日
本国民及び前線に伝えなかったために、日本政府
の態度を懐疑的に見たイギリス軍やアメリカ軍と
の戦闘や爆撃は継続され、千葉(下記参照)や小
田原、熊谷や土崎などへの空襲が継続された。
14日午前11時より行われた再度の御前会議で
は、まだ阿南陸相や梅津陸軍参謀総長らが戦争
継続を主張したが(この時阿南陸相や梅津陸軍
参謀総長は陸軍内でクーデターが起こることを認
知していた)、昭和天皇が「私自身はいかになろう
と、国民の生命を助けたいと思う。私が国民に呼
び掛けることがよければいつでもマイクの前に立つ。
内閣は至急に終戦に関する詔書を用意して欲し
い」訴えたことで、鈴木首相は至急詔書勅案奉仕
の旨を拝承し、14日の夕方には閣僚による終戦
の詔勅への署名、深夜には昭和天皇による玉音
放送が録音された。また夕方には加瀬スイス公使
を通じて、宣言受諾に関する詔書を発布した旨、ま
た受諾に伴い各種の用意がある旨が連合国側に
伝えられた。
翌8月15日正午の昭和天皇による玉音放送を
もって改めてポツダム宣言受諾を全国民と全軍
に表明し、戦闘行為は停止された。
なお昭和天皇がラジオで国民に向けて話すのは
初めてのことであった。
また早稲田大学教授の有馬哲夫
は、NHKをはじめとする一部マスコミが主張する
「日本が無条件降伏した」というのは間違いで、
日本はドイツのような軍と政府を含む無条件降
伏ではなく、政府が「ポツダム宣言」での英米中
蘇の連合国側の諸条件を受諾した上での降伏
であったと指摘している。
公式な第二次世界大戦の最後の戦死者は、8月
15日の午前10時過ぎに、イギリス海軍空母「イ
ンディファティガブル」から化学製品工場を爆撃
すべく千葉県長生郡に飛来したグラマン TBF
アヴェンジャーらが日本軍に撃墜され、乗組員3
名が死亡したものだった。
なお、同作戦でスーパーマリン シーファイアが零
式艦上戦闘機との戦闘で撃墜され、フレッド・
ホックレー少尉が無事パラシュート降下し陸軍第
147師団歩兵第426連隊に捕えられ、その約1
時間後に玉音放送があったもののそのまま解放
されず、夜になり陸軍将校により斬首された事件
も発生した(一宮町事件)。
なおソ連軍による日本侵攻作戦は、自ら8月9日
に承認したポツダム宣言受諾による戦闘行為停
止の8月15日正午のみならず、9月2日の日本
との降伏文調印をも完全に無視して継続され
た。南樺太と千島列島、満洲などは沖縄戦同様
民間人を巻き込んだ凄惨な地上戦となった。また
満州では逃げ遅れた日本人開拓民が混乱の中
で生き別れ、後に中国残留孤児問題として残る
こととなった。
結局ソ連軍は満洲のみならず、日本領土の南樺
太、北千島、択捉、国後、色丹、歯舞、朝鮮半島
北部の全域を完全に支配下に置いた9月5日に
なってようやく、一方的で違法な戦闘攻撃を終
了した。
阿南陸相は御前会議の直後に井田正孝中佐ら陸
軍のクーデター首謀者と会い「御聖断は下ったの
である。いまはそれに従うばかりである。不服のも
のは自分の屍を越えていけ」と説いた。しかし15
日未明には、「聖断」をも無視する椎崎二郎中佐
や井田正孝中佐などの狂信的な陸軍軍人らによ
り、玉音放送の録音音源の強奪とクーデター未遂
事件が皇居を舞台に発生、森赳近衛師団長が殺
害されたが、15日朝に鎮圧される(宮城事件)な
ど、ポツダム宣言受諾をしたにもかかわらず陸軍
内で争いが起きていた。
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