当会主催の講習会で蘭州通備嫡伝・郭老師が双手刀法(苗刀)を指導されている時の模様です。
馬鳳図⇒馬穎達⇒郭老師
双手刀法は通備門の重要な刀法の1つである。
広く普及している苗刀は民国時代に、南京中央国術館で馬英図(馬鳳図の弟、馬穎達と馬賢達の叔父)と郭長生が編成したものであり、通備門の練習している双手刀法と似たような動きであるが、通備門のものとは違うもの。
従って通備門では苗刀と呼ばず、正式名称は双手刀法である。苗刀が編成される前には、通備門ではずっと古くから双手刀法は練習されている。
双手刀法は源流が日本刀法の太刀であり、明の時代に倭寇が用いた野太刀を基に、明の将軍が研究したり、日本の刀術を学んだ人などの書物が元になっている。
また、室町時代の日本の剣豪・愛洲移香斎が創始した日本の陰流剣術の影響を 受けているといわれている。
この倭刀は当時の中国の刀法の技術では敵わなく、当時の中国の軍隊は倭寇に大変苦しめられていた。
倭寇により明軍が総崩れになり、その軍をたて直し撃退した武将・戚継光(1528年-1587年)は、1561年に対倭寇戦の陣で『影流目録』断簡を得た。これは日本の陰流剣術のものと推測される。この目録は戚継光が著した『辛酉刀法』に掲載された。さらにまた、茅元儀の『武備志』にも掲載された。
これには「刀は軽快で、前後左右に飛び回り、剣で斬ろうと近づこうにも、刀の方が長く近づきにくい。また、槍で突こうにも柄ごと両断されてしまう。」 とある。
中国で日本刀が武器として認められるようになったのは倭寇が火縄銃と共に大太刀や長巻を武器として使用したからである。倭寇の日本刀は明軍の長柄武器の柄を斬り落としてしまうため、火縄銃よりも恐れられたのである。
また、宋代より日本刀は貿易によって中国に伝えられており、同時代の欧陽脩が『日本刀歌』を詠み、日本刀の斬れ味と美しさを絶賛している。また、明代初期には、明の朝廷の軍器局によって、倭刀が製作され始めていた。
こちらの双手刀法以外にも、当会では、六大開及び八大招、六合大槍、奇槍、十二大蹚子 、二十四手まで馬家通備門の奥伝の技術まで伝承されて練習しています。
初心者及び女性の方も大歓迎!
当会ホームページ⇒ www.tongbei-japan.com/
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