「銭6万貫を5日のうちに上納せよ」と命ずる鎌倉幕府の徴税使、黒沼彦四郎。
「そんな大金はわが新田の庄にはもう無い」と弁解する新田義貞の弟の義助。
「ほんとか?ほんとうに無いのなら、新田の蔵の中を見せろ」と徴税使。
この押し問答を、隣の部屋で聞いていた新田義貞は堪忍袋の緒が切れて徴税使を切り捨ててしまう 。
古文的には「我ガ館ノ辺ヲ、雑人ノ馬ノ蹄ニ懸サセツル事コソ、返スガエスモ無念ナレ。イカデカコレヲ見ナガラ、コラウ可キヤ」となります。
もはや後には引けない。しかし手勢は150騎のみである。
「義助、もはや我慢がならん、岩松を呼べ」と言った後の根津甚八さんの死を覚悟した表情、いいですね~。
北条一族が源頼朝を担ぎ上げて148年間永々と築き上げた鎌倉幕府という政権が、無位無官の新田義貞によって倒されたのは、この事件のわずか14日後でした。
恐るべき時代の申し子、風雲児、新田義貞 です。
しかし、この新田義貞が歴史の表舞台で活躍したのはこの日からわずか6年間だけでした。もし新田義貞が福井県で戦死せず、もう少し生きていれば歴史の教科書に室町時代は無かったかもしれません。
ただし、知る人ぞ知るですが、あの徳川家康は新田義貞と同族であるようにみせるため新田義貞の故郷を手厚く保護しています。また、「この紋所が目に入らぬか!!」の三つ葉葵は新田家を伝承していてる目印という説もあります。
まさに、新田義貞の一族再興への執念が、時代を超えて、徳川家康の天下取りを後押ししていたと言えるのではないでしょうか?
国指定史跡である生品神社は群馬県太田市新田市野井町の生品中学校の西北にあります。
徳川家康の先祖 徳川義季を祀った世良田東照宮(群馬県太田市世良田町)
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新田義貞ゆかりの地4 鎌倉 稲村道と仏法寺(Google Photos)
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