和道流空手道・柔術拳法の流祖 初代宗家 大塚博紀 最高師範 著
空手道 第一巻 P21 ≪眼,心,力,技は一体≫
「眼は口ほどに物をいう」という俗諺がある。憂いの眼、喜びの眼、可愛い眼、怜悧な眼、恥じ らいの眼,怒りの眼,猜疑の眼、狡猾な眼,うさん臭い眼、恐怖の眼、ぽんやりした眼、うつろ な眼、狂った眼、睡むそうな眼,鵜の眼鷹の眼,といろいろな状態を現わす眼がある。 これらは皆心の動きが眼を通して表面に現われた状態である。また「眼は心の窓」ともいわれる。だから眼を見れば心の内が見えるわけである。もっとも見るものの眼が相手の見る眼の窓より低ければ内の心を覗くことはできない。また見る眼の視力が弱かったり色盲だったりしては相手の眼色の色別はわからないし内の心の鑑別をあやまることもある。いわんや腹の中の黒い者の窓の内は暗くて心の底はわからない。武道ではこの眼が重要なのである。突きも蹴りも受けも払いも見事に極まって達者に型を使っているように見えても、眼の付けどころが動作に捉われて一々変り,下段払いの場合は下を見るし突く時は拳先に眼を注ぎ蹴る時はまばたきをするものがある。それではどんなに達者に見えても単に型を使っているに過ぎない。それは、心の持ち方が自然と眼に現われてくるからである。心の表現である形と心が別々に離れていては人形踊りにすぎない。人形踊りでも使い手が名人であればその心が人形の振りに移って現われる。形の持つ心の伴わない型は死んでいる。死んだ型は何の役にもたたない。画餅はどんなに上手に描かれてあっても所詮は、画餅で空腹の用はなさない。形の動作には一々意味目的がある。その意味目的を活かした動作でなければ何年稽古しても無駄な骨折りでしかない。心の表現である形を使う場合形のもつ心を,活かした形でなければ死んだ「型」になる。活きた形でなければ活用できない。活きた形を使うことは非常にむずかしい。心して稽古しなければ上手にはなれない。稽古は一般に号令のもとに集団で行われることが多い。何の動作でもそうであるが順突きの練習の場合でも常に前進・回転・前進と指導者の号令のもとに反覆練習を行っている。号をかけるものは惰性でただ怒鳴っているにすぎないし稽古するものは号令につられてあやつり人形の様に動いている感がある。武技の動作は、全て相手があっての動作である。単独で行う時でも相手を連想なしつつ動作の意味目的を活かして動作しなければならない。集団稽古の便宜上号令のもとに前進をなしつつ突きの練習をくり返すのであって単に突きながら前に歩いて行くのではない。便宜上そうしているのであって四方八方に方向を転換しつつ突きあるいは蹴り、受け、払いを練習すべきである。その体系づけられたものが形なので一人で自由に稽古できる様に組立てられたものである。大切なことは前進してもどちらへ変転しても一つ一つの動作が極まると同時に前後左右四方八方に即時随意に転身転技が可能な体勢が、とられていなければならない。号の調子に乗ってまだ号のかからぬうちに先走って突いて出たりしては即座に後方の相手に対応変化ができない。それでは突きの体勢が死んでしまう。常に瞬間々々どの方向からの相手に対しても応変可能である体勢でなければならない。その体勢はそういう心構えの表現である。従って眼は自然と前方を見ていても心眼は常に八方にらみの構えである。心が一方に偏在すると体勢も片寄って即座に自由な動作に変ることができなくなる。これは心ばかりでなく力もそうである。勿論力も心の動きに従って働くのであるから心と力は心と体勢との関係と同様であり力と体勢も不離の関係にある。力もまた決して偏在することなく極まる瞬間は全力が体全体に然も均等にみなぎり瞬時にしてもとに復し即座に臨機応変如何なる力の運動も体勢の変化も可能な状態にもどらねばならない。それには極まる瞬間以外には力をいれない。力は極まる瞬間の前後には全く必要がないのである。力は全力を全身に均等に漲らせて決して一方に偏在することなく如何なる時でもその中心が移動してはならない。常に体の中央即ち隣下丹田にあれば力の極まった瞬間体勢が崩れることなくまた力を抜いても中心が狂わなければ如何なる変身転技も自由である。突く時間にのみ力が片寄ったり蹴る場合足にのみ力が多くはいり過ぎては力の中心が狂って体の安定が崩れるので思う変化ができなくなる。心もまたカ同様一方にとらわれると心が中心にないので他方に心を配ることができない。また心を中心に止めておいても思うところへ配ることができない。心を思うところへ配っても思うところに止まらずまた中心からも放れてはならない。「心は放たんことを要す然して放心を求めよ」と聖者はさとしている。丁度鵜匠の手綱捌きの様に各鵜ごとに自由に行動せしめて然も手許でしっかりと手綱を掌握し全部の鵜を統率して放さないのと同様である。それは鵜匠の心が手綱によって各鵜に通じ各鵜の心は鵜匠と互に相通じ電流の様に流れて止まるところがないからである。空手もこれと同様で力と心と互に相通じてこそ、心技一体となるのである。技は心の表現である。技が心から放れても心が技から放れてもいけない。心の現れである眼の付け方もやはり心と共に止まっても放れてもいけない。眼がひとところを凝視すれば心は中心を放れて留守になる。また心がひとところに止まれば眼は物を見ても見えない。空手の稽古においても,相手の眼,拳,足と一つところを見つめると心がそこにとらわれる。また心を眼、拳、足と一つところに用いると眼もまた一つところに止まって他が見えなくなる。眼も技も心の命によって働くのだから結局心の構えが大切なのである。即ち、「無心」でなければいけない。空手の錬磨は究極のところ心の錬磨に帰するのである。眼は人間にとってまことに大切なものであるが、また邪魔になる場合もある。盲目の国学者保己ーがある夜門弟に講義のさなかに一陣の突風が燈火を消したので門下生達は燈火をつけるまで講義を待つ様願った。その時、保己ーが「眼明きは不自由なものよ」といって笑われたという話がある。成程なまじ物の見える眼があっては不便なこともある。美人を見て心が動揺したり、恐ろしいものを見て恐怖心を抱くのも見える眼があるからである。眼の窓を通じて心に響き心がそこに止まるからである。不自由なのは眼でなく,これを駆使する心なのである。武道の鍛錬はこの不自由な心が住まるところがないようにする為である。外から何時誰に覗かれても心が奇麗であれば、動揺しないで冷静でいられるだろう。常に心を磨いて奇麗にしておきたいものである。 「洗心」は武道鍛錬の一つの目的である。然し永年に渡り武道の銀錬を続けても果して動揺しない冷静な心が養成されるだろうか。そう考えるのも既に心が動揺しているからである。だが若し自分が死に直面した場合心が動揺しないといい切れる者は果しているだろうか。こういう話がある。或る病める禅僧が主治医に「私は永年に亘る禅の修業で悟りを開いているからかくさずに本当の病名を聞かせて欲しい」と願ったので、主治医も尤(もっと)もと思い胃癌であることを告げたところ、永年の禅の修業で自信を持った禅僧も、心が動揺して死を早めたということである。それが本当だろうと思う。人間は誰でも死を最も恐れる。そしてその死は誰でもまぬかれることはできない。死に望んで心が助かも動揺せず,従容としてその死を迎えられれば立派なものだ。武道も禅もその修業は心の修業の一つの方法にすぎない。だがこれらの修業だけでは到底望み得ない気がする。死に直面して少しも動揺せず平常心でいられるには死をさけられない生命への未練が残らねばよいのである。生命への未練を少しでも少なくするには、顧て過去の生活に悔ゆるところなく満足が持てれば持てる程,それだけ未練は少なくなる筈である。日常生活如何が大きく心の修業に影響してくると思う。 神より授けられた天与の責務を家庭人として社会人として人間として充分に遂行して悔いない生活の日々を死の直前まで継続する以外に方法がないと思う。方法は真に簡単だが実行は容易になし難い。寧ろ人間には安易な生活に陥入り昜い弱さがある。お互日常生活に最善の努力をつくし明るく楽しく満ち足りた心豊かな日々を送って安らぎの心を求めて、よりよい人間性の高揚を目指して努力したいものである。安定した動揺しない心が錬磨されればこれを表現する眼は輝きの光を放つ美しいものになるであろう。心の修業である武道の修業は道場だけではない。「常住座臥二六時中御修業これあるべく候」と武道の伝書には書かれている。宜なる哉。
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