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【ゆっくり解説】六十年以上の付き合い!徳川家康と今川氏真の関係の真実
Күн бұрын
【ゆっくり解説】六十年以上の付き合い!徳川家康と今川氏真の関係の真実
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ゆっくり真実の戦国史
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@user-oc7lp4ko7p
Жыл бұрын
結局、駿府で老後を過ごす事にしたわけだし、故郷と呼べる程の思い入れがなきゃそうはならんよね。
@ゆっくり真実の戦国史
Жыл бұрын
コメントありがとうございます!家康にとって駿府はやはり思い出の詰まった特別な地だったと思います。
@hirose795
Жыл бұрын
江戸にいた時も上洛で駿府を通る際は必ず義元の墓に寄り道して手を合わせてますし
@ぱくまん-z1x
Жыл бұрын
幼くして実父を失った家康は、今川義元を第二の父親と思って尊敬していたと思うんだよね。 なら家康と氏真は義兄弟の関係だったのかな。これだけ親しい関係が長く続くとそう思える。
@ゆっくり真実の戦国史
Жыл бұрын
コメントありがとうございます!おっしゃるように家康にとって義元の存在感は極めて大きかったと思いますし、氏真と義兄弟の関係だったとしたら胸熱ですね。
@佐藤裕二-z8t
Жыл бұрын
私は今川氏真、結局は家をまもったんだし平和な時代には儀式的なことには 活躍したんだから良かったんじゃないかな?とも。
@ゆっくり真実の戦国史
Жыл бұрын
コメントありがとうございます!江戸時代中期っくらいに生まれていたら普通に名君になってたかもしれないですよね。
@woomin-troll
Жыл бұрын
氏真は今川家をさらに大きくしたいという野心家じゃない分、人質時代から家康に優しかったのでは? ずっと子どもの頃の兄弟か遊び仲間の感覚で、立場が逆転しても変わらなかった。天下人になった家康も それが不快じゃなかった😊
@ゆっくり真実の戦国史
Жыл бұрын
コメントありがとうございます!氏真は名門の御曹司的なおおらかさを持っていて人には好かれたんじゃないかと思います。家康もそんな彼を慕ってたんでしょうね。
@rotriot367
Жыл бұрын
前提として戦国時代の人質は家臣団において有力な幹部候補生という側面もある。西洋やイスラーム世界に限らず月山富田城開城後に毛利氏が尼子旧臣を召し抱えるだけではなく、尼子氏嫡流を保護したように、今川氏滅亡後の駿河と遠江においても前の支配者の家系を保護することは統治権威の正統性を示すことに繋がるし、遺臣などの不満分子が傍流の子弟担いだ反乱や敵対勢力の侵攻への政治的抑止力になったと思う。
@ゆっくり真実の戦国史
Жыл бұрын
コメントありがとうございます!人質とはちょっと違いますが日本の古代律令制でも似たような制度が存在した記憶がありますし、北アジアでもモンゴル帝国のケシク制や契丹の著帳官のような部族の有力者の子弟を取り込む仕組みがありましたよね。主君と家臣との人格的結合で幹部候補生を養成するのは普遍的な現象なんでしょうかね。
@rotriot367
Жыл бұрын
@@ゆっくり真実の戦国史 統制権が不安定で言うこと聞かない有力な分家や外戚よりも、幼少時から気心知れた家臣の方が大名にとっても安心したという現実的側面はあったと思います。
@ゆっくり真実の戦国史
Жыл бұрын
@@rotriot367 そうですね、この時代に流行した男色もそうした文脈で捉えられそうですし、ちょっと話がズレますが中国王朝で皇帝が宦官を重用したのも、結局は赤の他人に過ぎない官僚たちより常日頃身辺に侍って身内に近い存在だったからという気がします。
@あぼぼです
Жыл бұрын
追放後もなんだかんだとお呼びがかかった、それだけでも今川氏真が色々と利用価値のある人間と思われていたことの証明と言える。 まあ、家康にとっても立場が変わっても「幼馴染」みたいな存在だったからこそ、最低限の地位は保証してあげたんだと思う
@ゆっくり真実の戦国史
Жыл бұрын
コメントありがとうございます!名門出身の貴種性というのも一つの立派な「能力」ですしね。家康の義理堅さもわかってなんだか安心します😄😄
@anzaisensei3611
Жыл бұрын
氏真が京都に行ったのは、家康と京都御所や公家とのパイプ役だったのではと思ってます。 江戸関東に集中したい家康だが政治の中心は京都、公家に精通してる氏真がピッタリだったのではと考えます。
@ゆっくり真実の戦国史
Жыл бұрын
コメントありがとうございます!その見方は面白いですね。家康と氏真はお互いの役割分担をはっきりさせた名コンビですね。
@PLXMZ3
Жыл бұрын
ここまで付き合いが長いとなると 名門今川家ってだけじゃなく、氏真自身に何か説明のつかない権威を身に纏っていたのかも。 何にせよ、家康と氏真の関係性って知れば知るほどほっこりする。
@ゆっくり真実の戦国史
Жыл бұрын
コメントありがとうございます!愛されキャラ的な面は確かにありそうですよね。自分も家康と氏真の関係はなんだか安心できて好きですね😄😄
@1億3千万
Жыл бұрын
個人的な妄想だが、家康が太原雪斎の弟子でいずれ氏真の側近として育てようとしてた
@ゆっくり真実の戦国史
Жыл бұрын
コメントありがとうございます!その可能性もあったと思いますよ。
@ハンニバルバルカ-v6v
Жыл бұрын
義元は親族でもある関口氏の娘(築山殿)を自身の養女にした上で元康(家康)と婚姻させたので、家康は今川氏の一門格になっていますし、桶狭間の戦いでは攻撃されている砦への兵糧入れという重役を任されていたので、北条綱成の様な一門が少ない氏真の補佐役を期待していた気がしますね。
@user-mz8fg1st3p
Жыл бұрын
天下を取ろうって機運が今川と徳川の2つの時期にあったってのが凄いね。敗れると復活は難しいんだけど。
@ゆっくり真実の戦国史
Жыл бұрын
コメントありがとうございます!やはり両家の縁の深さはもっと注目されてよいかと思います。
@fios1977
Жыл бұрын
付き合いが長いとはいえ、掛川城籠城戦で家康の心を読み言質をとった氏真に対して、突発的に家康を裏切り合戦には勝てたが「信」を失った真田昌幸。同じ家康に敵対した者同士とはいえ 後年の人生を見るとどっちが勝者か? 深い動画でしたね。
@ゆっくり真実の戦国史
Жыл бұрын
コメントありがとうございます!氏真は戦国大名としては没落したとはいえ、高家として礼遇を受ける家として存続したので実は勝ち組かもしれません。
@サリサリ-u5f
Жыл бұрын
良い話だ。 北条家を継いだ北条氏規も同じく今川館で一緒に過ごしたから、3人仲良かった姿が浮かぶなぁ。
@ゆっくり真実の戦国史
Жыл бұрын
コメントありがとうございます!その場面を思い浮かべるとなんだかほっこりします😄😄
@-msc
Жыл бұрын
二人ともアスリートだから個人としては仲が良かったんだろうな。 政治的には氏真に気を使って殊遇してることで旧主筋を大切にしてる律儀な人って評判も取れる
@ゆっくり真実の戦国史
Жыл бұрын
コメントありがとうございます!おっしゃるように家康は氏真の存在を自分の大義名分のために利用はしたと思いますし、氏真もむしろをそれを進んで受け入れてたのかもですね。
@yoshii871
7 ай бұрын
家康って権威のある家を保護して捨て扶持渡してるよね、特に足利の演者関係で
@rcvbnj
Жыл бұрын
今川氏は「足利御三家(吉良・渋川・石橋)」の吉良氏の庶流であり、そこへ足利幕府の政所執事(内閣官房長官)を世襲していた伊勢氏(の庶流)の娘(「伊勢宗瑞=北条早雲」の姉)が嫁入りしていたので、貴種性は申し分無く、必死になって出自を探さなければならなかった松平(得川=徳川)氏とは家格面で雲泥の差が有りました なので、今川義元の「烏帽子・白塗りに“麿眉”・輿で移動」という「“公家かぶれの”軟弱武将」イメージは、実際は「名門の大名の当然の“身嗜み”」だったわけです そういう意味で氏真は正に「室町時代の名門一族の家庭に育った鷹揚なお坊ちゃん」で、そもそも「臣従している周辺の豪族の子弟を虐める」等という下卑た発想が無かっただろうし、(学究肌の)家康にしても、今川家から施される各種の教育を素直に受け入れて居ただろうから、二人の相性は決して悪くなかった(敵対する理由や原因が無かった)筈です 「育ち(家庭環境)」や「性格」の良さが後々「身を助ける」原因になったという、教訓の多い氏真の一生でした
@ゆっくり真実の戦国史
Жыл бұрын
コメントありがとうございます!おっしゃるように戦国時代でも家格は相当重視されていましたので今川義元がそれでバカにされるいわれはないですね。氏真も人に愛されるキャラクターだった感じで、旧知の仲で面倒見の良い家康とは相性が合ったんでしょうね。
@yoshinori1441
Жыл бұрын
動画投稿ありがとうございます! 大河ドラマの氏真公は溝端淳平さんが演じられていて、決してバカ殿ではなく、偉大な父義元を失い、父へのコンプレックスで苦悩しながらも戦国大名の当主として生きる姿を魅力的に描いてましたね!
@ゆっくり真実の戦国史
Жыл бұрын
コメントありがとうございます!今年の大河ドラマは評判は色々ですが(笑)おっしゃるように氏真の人物像の描写はよくできてて深みがありますよね。
@AKIRAuz-v1r
Жыл бұрын
晩年の二人は、茶飲み友達 家康は氏真の話が長いのに辟易して江戸城から遠のけた 家康にとって、氏真は兄貴分地元の先輩的な存在 戦うけど命まで取る気は無い
@manekineko0912
8 ай бұрын
今川家は何気に幕末でも徳川のために働いていますね。 今川範叙は高家のまま若年寄に就任して官軍相手に嘆願をしていることが確認できます。 その今川範叙が最後として今川家が滅亡してしまったのは残念ですね。
@syuzredsyuzred8507
Жыл бұрын
江戸城の家康の元にちょくちょく来て長話するんで辟易して離れた品川に屋敷を与えたて話は 辟易してたら忙しいって断れば良かったのに 弱みでも握られてたのか?と勘繰ってしまう
@ゆっくり真実の戦国史
Жыл бұрын
コメントありがとうございます!そう言ったところでも家康の人間的な部分が表れてて安心します😀
@ハンニバルバルカ-v6v
Жыл бұрын
既に将軍になって全国を支配している家康が辟易するほど長話されても手討ちにしなかった辺り家康と氏真の関係が察せますよね。
@bensyan9925
Жыл бұрын
家康が駿府に愛着持ってたのは富士山が奇麗に見えるからという理由もある気がします まあどんな時代でも誰でも青春を過ごした場所や経験したモノやコトに愛着持つものだと思います 女性が主人公の大河で井伊直虎じゃなく早川殿が見たかった…
@ゆっくり真実の戦国史
Жыл бұрын
コメントありがとうございます!その理由もありそうですね。早川殿の大河は自分も見てみたいですが史料が少ないで相当な部分を想像で補うことになりそうです😅😅
@mnagashima9604
Жыл бұрын
今川ー徳川の和解と北条含んだ同盟については、家康と同時期に今川家で留学してた北条氏規の存在もポイントとして大きい。 氏規は後に秀吉の北条攻めの際にも降伏論唱えて最前線の家康と交渉していて、なんやかんやで後の北条本家になる。 義元時代の駿府は日本国内で見ても屈指の文化文明都市だから、家康も氏規もここで広い眼を養った可能性は高い。 あと朝比奈泰勝が対北条の交渉窓口になったのも、氏規が今川から北条に戻る時に泰勝とかなり近い朝比奈一族を重臣として連れ戻ったからというのもある。
@ゆっくり真実の戦国史
Жыл бұрын
コメントありがとうございます!おっしゃるように氏規の存在は大きいですよね。今川時代にお互いが培った人脈がその後にしっかり生かされている点で家康と今川との関係はもっと注目されてよいかと。
@ai_love_fox
Жыл бұрын
巷では「むごい教育」がさも当然のように語られてますが、当時の資料から分析すると辻褄が合わない上に出典すら見当たらない。 どこから湧き出た話なんでしょうね。
@ゆっくり真実の戦国史
Жыл бұрын
コメントありがとうございます!確かに何なんでしょうね。そのあたりの言説が形づくられた過程を調べると面白いかもですね。
@mnagashima9604
Жыл бұрын
徳川家中としては散々お世話になった今川家から独立したことに対する後ろめたさ、巷間では裏切ったってことは理由があったんだろうという邪推(光秀も同じ邪推されましたな)が混ざったのかなと
@hirose795
Жыл бұрын
寿桂尼に養育されて、あの太原雪斎から教育を受け、今川一門の姫を嫁に迎えて…至れり尽くせり。
@泉川孝之
Жыл бұрын
蹴鞠は武士の教養であるし、その達人が遊び好きな軟弱な人間ができるとは思えない。また、自分も苦しいのに上杉謙信に攻められた北条に加勢しているし、ただの社交だったのかもしれないけど塚原卜伝に剣術を習っているし、何より落ちぶれてもずっと早川殿が付き添っているというのは大きな事実。それだけ氏真は魅力のある人物だったのだろう。 親の仇の信長の前で蹴鞠を披露というのも、戦いで生き死にするのは戦国の常であり決して恥なことではないと思う。むしろ同盟を一方的に破って侵攻してきた信玄の方が憎かっただろう。
@ゆっくり真実の戦国史
Жыл бұрын
コメントありがとうございます!おっしゃるように教養的な部分も含めて氏真は人には好かれたのではないかと思います。信玄は今川に対する不満が相当溜まっていたようですし確かに武田と今川の関係のほうが対立の根深さでは上だったかもですね。
@syuzredsyuzred8507
Жыл бұрын
大名としての最後の戦い掛川城籠城も裏切り者内通者も出さずに戦ってるしねえ、落ち目になった大名が裏切り続出で滅びるの見たら案外人望有るじゃんて思う
@hirose795
Жыл бұрын
ちなみに氏真くんは剣術の免許皆伝だったりもします
@user-cc4og4ci9f
Жыл бұрын
不仲だった訳ではなくて結果的に家康が独立して『お互い一門集としてやって行こうぜ!。』と言う物があって基本的には不仲と言う訳ではなかったと言うのが実情の様ですよね。 それもあってか家康に対して『せいぜい1万石を統括するのが手一杯だった私がいみじく三州も纏めると言うのは余りにも無茶な話で、その事で奮闘してくれた家臣達には申し訳ないと言う気持ちしかない。』と言う様な事を語っていたりするので氏真自身が語っていたりしますよね。 そして氏真自身の人間評も氏真が領有した駿河や世話になった北条の相模や伊豆、晩年を過ごした東京の品川でも『氏真は内政の人であり楽市・楽座や関所の撤廃、きちんとした度量衡を用いた文治政治を送っていて、その才は大なる石田三成で小なる長曾我部国親であり武門の方ではなかった。』と言う内政に全振りした能力であった事が伝えられていますよね。 ただ、彼の知られざる欠点の1つに多弁で壮大な弁士であった事から彼が来ると1日がそれで終わってしまう事から『(当時発展していた江戸の中で)一番遠い場所に屋敷を与えよ。』と言う事から品川に屋敷が与えられて、性も品川と改名し晩年を送った事は有名で、その品川が今は東海道の一種の起点になっている所に『俺は日本で一番良い所に住んでいたんだぜ!。』『天下に手をかけた信長も、大阪都を打ち立てた秀吉も、天下人になった家康も品川を通らずして東海道を渡れないから実は俺が一番内政では買っているんだぜ!。』とあの世で笑っているんだろうなとは思いますよね。 そして屋敷近くに架けられた今川橋の袂で売っている焼き菓子を『戦国で今川で天下は取れなかったけど、現代では今川焼を知らぬ物は少ないから現代で天下を取ったし文化面で天下を制して見せたぜ!。』と笑っていそうな気がしますよね。
@ゆっくり真実の戦国史
Жыл бұрын
コメントありがとうございます!抗争状態にはなっても本気でお互いを打倒しようとは考えてなかった気がしますし、氏真はおっしゃるように内政については一定の成果を挙げてて、軍事面についても多分に運に恵まれなかった面もあるので無能と断定できないところはありますね。
@user-ponkotsukakumei
Жыл бұрын
品川に改姓したのは氏真の次男の 血筋で 氏真と長男の血筋はずっと今川ですよ(o'ω')ノ
@たまです
Жыл бұрын
氏真さんは一周回ってかわいいw
@ゆっくり真実の戦国史
Жыл бұрын
コメントありがとうございます。氏真公は戦国のアイドルですね笑
@O-mega51
Жыл бұрын
大河で溝端くんが演じる氏真が設楽原で再会する展開を期待したのですが…家康軸のドラマにすると長くなるし、その話はもうお腹いっぱい!って感じなんで、家康&氏真で主人公にした方が新しいものが出来たんじゃないでしょうか?
@ゆっくり真実の戦国史
Жыл бұрын
コメントありがとうございます!三英傑絡みの大河ドラマは確かにちょっと食傷気味ですので新鮮なテーマのものも見たいですね。
@Sakyo-Iwakura
Жыл бұрын
氏真は血統と文化レベルは高いけど、軍略、謀略は殆ど無く、野心はもっと感じれない。時勢に流されて屈辱的な苦難にもなんとも対応している。上手くは解決出来ないけど、苦難に耐える忍耐は家康の生涯や人柄と似通っているように感じる。 敵対した時期はあるけど、憎しみはお互い感じれない。代え難い友誼があったと想像出来ますね
@ゆっくり真実の戦国史
Жыл бұрын
コメントありがとうございます!乱世向きの能力ではなかったんでしょうね。でもおっしゃるように意外に根性はあって、家康との相性も良かったと思います。
@いち-f4t
Жыл бұрын
どうする家康で年老いた家康と氏真が子供の頃の昔話を語り合う姿観たい。
@ゆっくり真実の戦国史
Жыл бұрын
コメントありがとうございます!その場面があったらちょっとウルってくるかもです。
@ひょうべえ
Жыл бұрын
今川家滅亡の大きな要因について氏真に原因を求めるなら、1563年の「三州急用」でしょうね。離反した家康を攻めるという理由で通例以上に負担をかけたのに北条家の援軍に行ってしまった。これが後の武田氏にとっての高天神城落城のように遠江の国衆の信頼を失って大規模な反乱につながったのではないでしょうか。 登録者2000名おめでとうございます。
@ゆっくり真実の戦国史
Жыл бұрын
ありがとうございます!今後も気長に投稿続けていきます。おっしゃるようにそれがターニングポイントになりましたよね。緒戦はむしろ氏真のほうが押し気味だったのですが…氏真の判断も仕方ない部分があったとはいえ結果的には自分の首を絞めましたね。
@user-yt1uw8ue5l
7 ай бұрын
2人が仲が悪いなら保護したり、高家に取り立てることはことはなかっただろ。
@mikomikosan99
Жыл бұрын
大河ドラマいけるな
@ゆっくり真実の戦国史
Жыл бұрын
コメントありがとうございます!大河ドラマも評判はいろいろですが😅😅
@伝説の麻婆豆腐
Жыл бұрын
やっぱり、どうする氏真が見たかった😗
@ゆっくり真実の戦国史
Жыл бұрын
笑 2026年の大河ドラマでぜひ😆
@フォード-i1w
Жыл бұрын
織田信秀とかも朝廷に献金大枚はたいて飛鳥井家の蹴鞠の講師登録に必死だったり大友宗麟の祖父義長は「弓馬の道は申すに及ばず、文学・歌道・蹴鞠を差し置いて鷹狩ばっかやってるのは無益だ」と説いたり武田信玄も和歌大好き(義信と一緒に歌う話も)と武家にとっては必修教養なのよね→公家技能 そもそも信長も秀吉も公家趣味全開だし(茶道やってる時点で) 家康はなんでも趣味はガチで取り組む(囲碁とか50くらいまで暇人のやることと嘲ってたけどハマって浅野や伊達と身分忘れるレベルに熱中)けど和歌だけはイマイチだったらしい…?w→歌って大声で歌うもんなんちゃうの?的な 家康の義理堅さや面倒見の良さ(氏真然り氏規然り)も凄いし、こういうところが周りから好かれてたんかなぁって思う
@ゆっくり真実の戦国史
Жыл бұрын
コメントありがとうございます!和歌を筆頭に教養の習得は戦国大名にとって政治的な効果もあった感じですから決して疎かにはできないですよね。家康のそういった凝り性な面や面倒見の良さは人間味が感じられて好きですね。
@ザナドゥ-i6h
2 ай бұрын
今川氏真が京都に行ったのは家康がお願いしたからのように思う 家康の今川氏真に対する信頼があって、今川氏真の得意は京都にある 家康は京の最先端な出来事(政治的なことも含む)を知りたいために家康はお金を出していたのだと思う 歴史を知れば知るほど北条、今川、徳川って仲がいいよね 逆に武田って駄目よね
@user-sy9hu3um7t
Жыл бұрын
現代人の感覚では当時の勢力同士の敵対心や親交は測り切れませんね。個人的な心情を脇において、同盟相手や国衆の意向を組まないと大寧寺ノ変の大内氏みたいなことになったでしょうし。 個人的には第一次河東の乱が気になっています。今川武田の婚姻が北条侵攻の原因みたいな説明が多くの歴史動画で説明されていますが、北条氏綱(当主個人)の不信感だけではなく、それを後押しする伊豆・相模国衆の反今川的な何かがあったのではないかと想像しています。 後世では超巨大勢力に発展した信長や秀吉の独裁的な側面ばかり注目されますが、大きいとは言え地方勢力の今川や北条は国衆を束ねていくのにかなり気を使っていたでしょうね。
@ゆっくり真実の戦国史
Жыл бұрын
コメントありがとうございます!中世人の感覚は現代人とは相当違いますよね。戦国大名は国衆の動向にとにかく振り回されてますし、最近の研究で国衆がキーパーソン扱いされているのもわかりますね。
@あぼぼです
Жыл бұрын
本当につらい思いしかなかったのなら、隠居時に駿河を選ばず、三河の浜松に隠居所を選んでいるはず。 今川家で基本的な教養・教育を受けられたことが、家康の人格形成と武将としての基盤になったと言える。
@ゆっくり真実の戦国史
Жыл бұрын
おっしゃるように今川が家康に与えた影響は非常に大きかったと思います。その点も含めて今川家は過少評価されがちですね。
@山成-m7b
Жыл бұрын
貞春尼が秀忠の女性家老に抜擢されたのは凄いことだと思います。貞春尼ってNHK大河ドラマ武田信玄で義信の正室於津禰のことですね。義信が死んで駿河に帰るときに「信玄、義信様を返せ!」と信玄を叩いていたのを思い出しました。こういう形で歴史の表舞台に復活するとは!やはり、今川家というのは能力の高い人が多く、名門なんですね。
@ゆっくり真実の戦国史
Жыл бұрын
コメントありがとうございます!武田信玄懐かしいですね😄今川家中の人物は一般的な知名度は低いですがおっしゃるように実際は有能な人材が多かったと思います。
@えあ-j4m
2 ай бұрын
父の敵の信長や、謀反起こして独立した家康とは後年和解したが、長年の同盟を破って本国駿河を奪った武田は許せなかった模様。長篠の戦いにも織田・徳川の陣に参加してるね。
@megane-tetugaku
Жыл бұрын
昔のマンガで、確か半蔵の門だったか?で物語の中で、今川義元が桶狭間の前に心の中で、この戦が上手く行けば跡継ぎは家康にするか⁉️とかのシーンがある。義元は家康をかなり、かっていたかもしれないね?
@ゆっくり真実の戦国史
Жыл бұрын
コメントありがとうございます!義元は家康を次代の今川を支える人材と見なしてた感じはありますね。
@ラーンスロット
Жыл бұрын
嫌いな奴と50年以上も一緒に居るわけないししかも昔自分の上司だった人が平になる、自分の部下になるとか嫌いなら絶対無理やで。
@ゆっくり真実の戦国史
Жыл бұрын
コメントありがとうございます!やはり二人には元主従といっただけの関係を越えた親近感があったんでしょうね。
@hmshood302
11 ай бұрын
野心が少ない文人大名。剣術の技量も人並み以上で自分の身は守れる。子孫には松平清康系譜との婚姻関係もありの、元は北条とは親戚だし。津軽、品川、吉良(上杉)としっかり子孫を繋いだんだから戦国時代において立派だよ。
@ゆっくり真実の戦国史
11 ай бұрын
コメントありがとうございます!大名家としては残りませんでしたけど割と勝ち組な感はありますよね。
@タク-p1s
11 ай бұрын
もともと氏真がいじめてた説を聞いたことがなかったなぁ、人質時代のいやな奴担当は孕石さんな気がする
@ゆっくり真実の戦国史
11 ай бұрын
コメントありがとうございます!自分が子供のとき読んだ学習漫画だと氏真が家康をいじめてた描写があった気が(うろ覚えですけど😅)
@helixlord9014
4 ай бұрын
家康のように雲の上の上まで偉くなった身に対しては、友人のような距離感で接せる人間はもはや居なかったと思うんだよな 神様や大御所様として崇めて接する人間は多くいたのだろうけど さらには桶狭間どころか対武田やら家康公苦闘の時代そのものを知る同世代すら減りつつあったわけで、部下の前ではともかく、なんやかんや内心そういう馴れ馴れしさは悪い気してなかったように想像してます 側近たちは「あの爺さんなんやねん不届者や!」って思ってたかもですが
@ゆっくり真実の戦国史
4 ай бұрын
コメントありがとうございます!家康も気心の知れた仲の氏真の来訪を喜んでいたって考えるとほっこりします😄
@184よっしん-q2b
10 ай бұрын
ジャイアントスネ夫が仲良しみたいな印象しかないけどねえ、今度暇なとき拝見する。
@ゆっくり真実の戦国史
10 ай бұрын
コメントありがとうございます!ジャイアンとスネ夫の例えはそういった部分もあるかもですね。お時間があれば是非ご視聴お願いします😄
@福澤健太-p4f
Жыл бұрын
次のネタは秀次事件でお願いします
@ゆっくり真実の戦国史
Жыл бұрын
リクエストありがとうございます!秀次事件も面白いですよね。すぐには難しいかもですがいつか取り上げてみたいです!
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