皆様、こんばんは。先日からスタートした「昭和の歌姫100人を歌う」No.028です。今回は、「アン・ルイス」さんです。アン・ルイスさんは1956年6月5日生れの現在67歳です。アン・ルイスさんは、3、4歳の頃から既に雑誌モデルやフィルム会社のCMにも出ていました。父親がアイルランド系アメリカ人(アメリカ海軍の軍人)で、母親が日本人のハーフです。最近はハーフと言わず、ダブルと言うようですね^^
1970年、14歳のとき、横浜外国人墓地を散歩中、なかにし礼さんにスカウトされ、「なかにし礼商会」第一号タレントになりました。
1971年2月25日に、ビクターレコードよりシングル「白い週末」でデビューしました。
当初はグラビアアイドルやアイドル歌謡を中心に活動する中、1974年に「グッド・バイ・マイ・ラブ」が、公称50枚の大ヒットをします。
自身でステージ衣装のデザインを手がけることもあり、70年代後半は、
当時の所属事務所・渡辺プロダクションの後輩、キャンディーズの「やさしい悪魔」のステージ衣装のデザインや、後楽園球場で行われたサヨナラ公演のステージ衣装を手がけました。
また、仲が良かった山口百恵の衣装デザインも手掛けました。
また『SUZUYA』にオリジナルファッションブランド『ONAGO』を立ち上げました。
後の御主人の桑名正博さんや多くのロックミュージシャンとの交流を経て、徐々にロック色を強め、
1980年代に入ると「ラ・セゾン」や「六本木心中」「あゝ無情」などのヒット曲を放ちました。
これらはチェッカーズや吉川晃司さんらとともにロックと歌謡曲の垣根を取っ払ったひとりとしても評価されています。
「ラ・セゾン」は1981年に長男の美勇士を出産し、育児に専念するため音楽活動を休業していたアン・ルイスが活動を再開した最初のシングルで、作詞を手掛けたのは、山口百恵こと三浦百恵さんです。
百恵さんは既に引退し一般人となっていましたが、アンと百恵が友人関係だったことから歌詞の提供が実現しました。
作詞の依頼を受けた際に百恵は「再び頑張ろうとしているアンのために書く。ただしこれっきりよ」と快諾してくれたといいます。
タイトルの “ラ・セゾン” はフランス語で「季節」の意だが、フランス語の学識のある百恵は「発情期」という意味合いを持つこの語をあえて選択、男女の業の深い世界を表現したそうです。
作曲は、事務所の先輩でもありアンがかねてより大ファンであった沢田研二さんが手掛けました。
沢田に楽曲の提供を依頼した際、アンは「『ス・ト・リ・ッ・パ・ー』のような曲を書いてほしい」との注文をつけたといいます。
その後、自らパニック障害であることを打ち明け、しばらく父親の母国アメリカに在住していましたが、
2005年11月23日にセルフカバー・アルバム『REBIRTH』を発売と同時に音楽活動を再開しました。
その後はファッションやペットグッズなどのデザイン、プロデュースも手がけています。
2013年4月6日、元夫の桑名正博と息子の美勇士で親子3人共演CDを同年10月に発売すると同時に、
これをもって完全にアン・ルイスが芸能界から引退することが発表されました。
桑名正博さんは元夫で、長男はミュージシャンの美勇士さん。
美勇士さん談によるとアンが4年に1度、来日する機会があり、その際は桑名と会うように仕向けていたといいいます。
懐かしいディスコグラフティーとともにお聴き頂ければ幸いです^^
現在、僕や歌のパートナーの新二郎さんの大切な歌仲間であり大先輩でもある女性が癌と闘っています。
僕達は医師ではないので、彼女に対して出来る事に限りがあります。
そこで新二郎さんと相談して、お百度参りの代わりに、
「昭和の歌姫100人を歌う」と題して僕はPOPSと歌謡曲、新二郎さんは演歌を中心に、
昭和デビューの女性ボーカリストの歌を100人カヴァーし、彼女の完治を願いたいと思います。
癌の治療はとても辛いですが、現在の医療はかなり進歩しています。
どうか一日も早く完治しますように。
昭和の歌姫たちの懐かしいディスコグラフティーと共に、お聴き頂ければ幸いです。
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初めて聴いてくださった方へ。
改めまして、はじめまして。伸(nobu)と言います。
私のページに来て下さり、有難う御座います。
僕はもう10年以上前になりますが「喉頭癌(声帯にできる癌)」を患い、声を失いかけました。
その1年前に初めての癌を患い、再発からの転移でした。
定期健診を欠かさなかったお陰で、初期の段階で見つかり、
すぐに処置をして頂き助けて頂きました。
しかし、暫くの間、歌うどころか喋る事すらままならない状況になりました。
当時の私は、喋る事も仕事の一つだったため、
それはとても辛く悲しかったです。
もしかしたら、もう「声」と言うものには頼れないのでは?
そんな思いを持ちました。
声が出せなくたって目だって見える。耳だって聞こえる。
体だって自由に動く。
何だって出来るじゃないか!そんな風に自分に言い聞かせた時もありました。
医師の「ある程度までは声は戻るよ」と言う言葉を信じ
喉を使っても良いと言われてからは、リハビリをして
毎日、家の近所の日の落ちた船着き場に車を止めて
大好きな中島みゆきさんの曲や、徳永英明さんの曲を聴きながら声を出す練習をしました。
思うように声が出なくて悔しくて泣いて車を叩いた日もありました。
誰にも聞かれたく見られたくなかった。
だから車の中は僕のリハビリ室でした。
その甲斐あって、医師も驚くほど回復し、
現在では喋るだけでなく歌う事も出来るまでになりました。
確かに、以前の自分の声ではなくなりましたし
今でも1曲全てを声もかすれずに歌う事は難しい時もあります。
でも、大好きな歌が歌えます。
友人の医師達や支えてくれた周りの人達に心から感謝をしています。
そして無理だと言う僕に、何度ももう一度歌おうと強く勧めてくれた大親友にも!
そして2013年7月にまた、新たに疾患が見つかりました。
とても症例の少ない難病だと告げられ、同年10月には障害者となりました。
その為、定期的に入院生活を強いられています。
明日はどうなるか解りません。
「負けたら終わり ではなく あきらめたら終わり」
「笑って生きるも一日、泣いて生きるも一日、どうせなら笑顔で」
この二つは私の座右の銘です。
世の中には、色んな病や悩みなどと闘っている人達が沢山いると思います。
どうか諦めないで下さい。
私は大好きな歌を笑顔で歌ってここに載せて行きます。
ここには沢山の歌の上手な方々が掲載されています。
私の歌はその方々には程遠いものです。
でも、歌えるようになりました。
良かったら聴いてみて下さい。
そして何かの切っ掛けにして頂けたら嬉しいです。
ありがとうございました。
Негізгі бет 「昭和の歌姫100人を歌う」No.028 アン・ルイス / グッド・マイ・ラブ / 女はそれを我慢できない / ラ・セゾン / cover:伸[nobu] With 仲間達
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