皆様、こんばんは。昨年からスタートした「昭和の歌姫100人を歌う」No.040です。今回は『八代亜紀』さんです。昨年末の12月30日に膠原病の一種であり指定難病である抗MDA5抗体陽性皮膚筋炎と急速進行性間質性肺炎のため、73歳でお亡くなりになりました。八代亜紀さんと言えば、演歌の女王のイメージですが、POPSやジャズなど、何でも歌いこなすマルチなアーチストさんでした。
あえて今回は八代亜紀さんの作品の中から、歌謡曲・POPS寄りの曲を4曲お届けしたいと思います。
一枚のLP盤・心をつなぐ10円玉・花束・ラッキーマンの歌の4曲です。
八代さんは、2023年9月12日に治療のため、年内の活動を休止することを発表しました。
以降は療養を続けてきましたが、東京都内の病院で死去されました。
葬儀は八代さんの遺志により、明けて2024年1月8日に事務所スタッフのみで執り行われ、訃報は翌9日に所属事務所より公表されました。
僕は1度だけ、八代亜紀さんにお会いした事がありました。
昔、僕が20代前半の東京で働いていた時、青山のショップでディスプレイの仕事をしていたら、
後ろから「この飾り籠は売り物じゃないのかしら?これ欲しいわ~」と声がして振り返ると八代亜紀さんが立っておられて、
僕が「良ければ差し上げます」と言うと、子供のように喜んで「本当?嬉しい!でも頂くのは申し訳ないから売ってください」と言われ、
「八代亜紀さんですよね?僕、貴女のシングルは全部歌えるんです。是非貰って下さいと」言うと、
僕にぎゅーっと抱きついで有難うといってマネージャーさんに言ってカセットテープにサインを入れて下さいました。
現在もそのカセットテープは僕の宝物です。
本当に笑顔の美しく素敵な方でした。心よりご冥福をお祈りします。
八代亜紀さんは小学生の時、たまたま父親が買ってきたジュリー・ロンドンのレコードを聴き、そのハスキーボイスに魅せられました。
もともと自身もハスキーボイスの持ち主だった彼女は、その声に若干のコンプレックスがありましたが、
ジュリーの声質に勇気づけられ、クラブ歌手になることを意識するようになりました。
中学卒業後、地元熊本のバス会社でバスガイドとして勤務していましたが、15歳で父親の反対を押し切り上京し音楽学院に通い、3年後銀座のクラブ歌手となり、スタンダードやポップスなどを歌いました。
同じクラブで歌っていた歌手に三谷謙(のちの五木ひろし)がいて、三谷から芸能プロダクションを紹介されます。
1971年にテイチクより「愛は死んでも」でデビュー。
芸名の“八代亜紀”の姓は出身地の八代(やつしろ)市から採っていて、
語呂の良さから「やしろ」という読みにしました。
本名である明代より呼びやすい2文字アキとし、また漢字の“亜紀”としたのは
「アジア(亜細亜)で何世紀も活躍できるように」との願いが込められています。
読売テレビのオーディション番組『全日本歌謡選手権』に出場して10週連続勝ち抜きでグランドチャンピオンとなったことで、
徐々にレコードが売れ始めます。
1973年に「なみだ恋」が120万枚とヒットした後も
「しのび恋」「愛ひとすじ」「おんなの夢」「ともしび」「花水仙」「もう一度逢いたい」「おんな港町」「愛の終着駅」など、
女心を歌った歌で次々とヒット曲を連発しました。
1979年に新境地を開拓した初の男歌「舟唄」が大ヒットし、1980年に発表した「雨の慕情」で日本レコード大賞を受賞します。
NHK紅白歌合戦では2年連続大トリを務めました。ほどなくして“演歌の女王”と称されるようになります。
1987年に個人事務所設立し、1990年に「花(ブーケ)束」を発表。
ポップス調バラードの同曲は八代の新たな一面を引き出し、演歌主体のファン以外からも支持されてロングセラーとなりました。
演歌歌手では珍しく全盛期の楽曲全てが連続ヒットし、女性演歌歌手の中では総売上枚数がトップです。
2012年頃からジャズ、ブルースなどを本格的に歌うようになります。
その後は、年間を通じて全国を巡るコンサートやディナーショーは、演歌・ジャズ・ブルースを構成した内容で、ジャンルレスを掲げた公演を続けています。
また、長年様々な形でのボランティア活動や故郷での地域社会貢献活動などにも積極的に関わっていらっしゃいます。
歌手活動だけに留まらず、画家としても活躍していらっしゃいます。
画家志望だった父親の影響により、小学生の頃は将来画家になるつもりだったそうです。
また父親も実は、娘には歌手ではなく画家になってもらいたかったそうです。
厚化粧のイメージがついて回っていた時期があり、ギャグのネタにされたり、嘉門達夫に「リバーサイドホテル」の替え歌で「誰も知らない素顔の八代亜紀」と歌われるなどしていましたが、
彫りの深い顔立ちをしているだけで、実際の化粧は薄い。
八代はその後、化粧品のテレビCMにすっぴんで登場し、テレビ画面から嘉門に対して「ざまあ見ろ!」というセリフを発していました(笑)
今回もシングルジャケット集など、多くのディスコグラフテーを載せています。合わせてお聴き頂ければ幸いです。
現在、僕や歌のパートナーの新二郎さんの大切な歌仲間であり大先輩でもある女性が癌と闘っています。
僕達は医師ではないので、彼女に対して出来る事に限りがあります。
そこで新二郎さんと相談して、お百度参りの代わりに、
「昭和の歌姫100人を歌う」と題して僕はPOPSと歌謡曲、新二郎さんは演歌を中心に、
昭和デビューの女性ボーカリストの歌を100人カヴァーし、彼女の完治を願いたいと思います。
癌の治療はとても辛いですが、現在の医療はかなり進歩しています。
どうか一日も早く完治しますように。
昭和の歌姫たちの懐かしいディスコグラフティーと共に、お聴き頂ければ幸いです。
……………………………………………………
初めて聴いてくださった方へ。
改めまして、はじめまして。伸(nobu)と言います。
私のページに来て下さり、有難う御座います。
僕はもう10年以上前になりますが「喉頭癌(声帯にできる癌)」を患い、声を失いかけました。
その1年前に初めての癌を患い、再発からの転移でした。
定期健診を欠かさなかったお陰で、初期の段階で見つかり、
すぐに処置をして頂き助けて頂きました。
しかし、暫くの間、歌うどころか喋る事すらままならない状況になりました。
当時の私は、喋る事も仕事の一つだったため、
それはとても辛く悲しかったです。
もしかしたら、もう「声」と言うものには頼れないのでは?
そんな思いを持ちました。
声が出せなくたって目だって見える。耳だって聞こえる。
体だって自由に動く。
何だって出来るじゃないか!そんな風に自分に言い聞かせた時もありました。
医師の「ある程度までは声は戻るよ」と言う言葉を信じ
喉を使っても良いと言われてからは、リハビリをして
毎日、家の近所の日の落ちた船着き場に車を止めて
大好きな中島みゆきさんの曲や、徳永英明さんの曲を聴きながら声を出す練習をしました。
思うように声が出なくて悔しくて泣いて車を叩いた日もありました。
誰にも聞かれたく見られたくなかった。
だから車の中は僕のリハビリ室でした。
その甲斐あって、医師も驚くほど回復し、
現在では喋るだけでなく歌う事も出来るまでになりました。
確かに、以前の自分の声ではなくなりましたし
今でも1曲全てを声もかすれずに歌う事は難しい時もあります。
でも、大好きな歌が歌えます。
友人の医師達や支えてくれた周りの人達に心から感謝をしています。
そして無理だと言う僕に、何度ももう一度歌おうと強く勧めてくれた大親友にも!
そして2013年7月にまた、新たに疾患が見つかりました。
とても症例の少ない難病だと告げられ、同年10月には障害者となりました。
その為、定期的に入院生活を強いられています。
明日はどうなるか解りません。
「負けたら終わり ではなく あきらめたら終わり」
「笑って生きるも一日、泣いて生きるも一日、どうせなら笑顔で」
この二つは私の座右の銘です。
世の中には、色んな病や悩みなどと闘っている人達が沢山いると思います。
どうか諦めないで下さい。
私は大好きな歌を笑顔で歌ってここに載せて行きます。
ここには沢山の歌の上手な方々が掲載されています。
私の歌はその方々には程遠いものです。
でも、歌えるようになりました。
良かったら聴いてみて下さい。
そして何かの切っ掛けにして頂けたら嬉しいです。
ありがとうございました。
Негізгі бет 「昭和の歌姫100人を歌う」No.040 八代亜紀 / 一枚のLP盤 / 心をつなぐ10円玉 / 花束 / ラッキーマンの歌 / 歌:伸[nobu] With 仲間達
Пікірлер: 17