皆様、こんばんは。「昭和の歌姫100人を歌う」No.048です。今回は、「太田裕美」さんです。太田裕美さんは、1955年1月20日生れの、現在、69歳。埼玉県春日部市育ちのため、春日部市から委嘱を受け、市の広報大使「かすかべ親善大」としても活動しています。夫は音楽プロデューサーの福岡智彦さんです。彼女の楽曲には良い曲が多くて、今回も選曲に迷いました。僕は彼女の歌の中で「君と歩いた青春」が一番好きなのですが、以前、UPしていますので、今回は外し、その代わりに2番目に好きな「ドール」を入れました。
また、今回収録の中の「失恋魔術師」では、太田は少々、舌足らずなため、歌詞の「魔術師」の部分が「マジュチュチ~♪」となってしまい、歌うのにとても苦労したそうです^^
1969年に中学3年で、友人の代わりにスクールメイツのオーディションを受けて合格。
受験理由は、大好きなザ・タイガースのジュリー(沢田研二)に会えるかもしれないと思ったためでした。
これにより渡辺プロダクションの東京音楽学院に入ることとなりました。同期生には、後にキャンディーズを結成した伊藤蘭、田中好子らがいて、事務所としては、太田もキャンディーズに入れる話もあったそうですが、太田は作曲や作詞が出来るということで、ソロでのデビューとなったそうです。
高校3年生だった1972年の11月、NHK総合テレビの音楽番組『ステージ101』のレギュラー出演グループ「ヤング101」のオーディションを受け、ピアノで「ショパンのワルツ」を弾いて合格します。
『ステージ101』には1973年1月から番組終了の1974年3月まで「ヤング101」のメンバーとして出演しました。
同期には谷山浩子さんがいました。
「ヤング101」時代の友人の姓名判断で、芸名を本名の弘美から「裕美」へと変更しました。
また、太田はアイドルを志望していましたが、20歳を過ぎてアイドルとして売り出すのは厳しい状況でした。
そこでディレクターと相談し、当時シンガーソングライターの小坂明子の『あなた』が大ヒット中だったことから、
小坂の後釜として、松本隆と筒美京平のコンビで楽曲制作し、ピアノ弾き語りで歌うフォーク調の曲で売り出そうということになりました。
1974年11月1日に「雨だれ/白い季節」でデビュー。キャッチフレーズは「まごころ弾き語り」。
20万枚のヒットを記録しし、1975年に日本レコード大賞、日本歌謡大賞などで新人賞を受賞しました。
1975年12月に3作目のアルバム『心が風邪をひいた日』からシングルカットされた「木綿のハンカチーフ」が100万枚を超える大ヒット。
翌1976年のオリコンチャート週間2位、年間4位を記録しました。ちなみに、年間1位は子門真人『およげ!たいやきくん』でした。
作詞は松本隆、作曲は筒美京平。この曲は太田の最大のヒット曲にして代表曲となり、
はっぴいえんどから作詞家に転身した松本隆の出世作ともなりました。
翌1976年にはNHK紅白歌合戦に初出場し、1980年まで5年連続で出場しました。
当時はアイドル歌手のような扱いを受け、大学祭などにも多数出演し「学園祭の女王」の異名をとりました。
1970年代には、渡辺プロ所属の歌手は日本テレビ制作の一部番組には出演できない時期がありましたが、
太田だけは「NON STOPプロジェクト」所属歌手ということで例外とされ、『TVジョッキー』『どっきりカメラ』などにも度々出演していました。
1982年に音楽活動を一時休業し、8か月間アメリカ・ニューヨークに単身留学。「八番街西五十一丁目より」で第4回ニッポン放送青春文芸賞優秀賞を受賞しました。
帰国後に留学中の経験を綴った著書『ニューヨークなんて怖くない』を執筆しました。
1984年1月20日の29歳の誕生日に、ディレクター兼プロデューサーの福岡智彦との交際を明らかにしました。
同年8月28日に婚約発表。翌1985年1月26日、福岡智彦と結婚。結婚式の仲人は愛川欽也・うつみ宮土理夫妻が務めました。
1980年代後半からは福岡智彦がデビューさせた遊佐未森らへの楽曲提供も行うようになりました。
活動休止中五後、1996年より音楽活動を再開し、同年4月2日よりライブ活動を開始。
2004年からは、太田、元かぐや姫の伊勢正三、元ガロの大野真澄の3人で、音楽ユニット「なごみーず」を組み、
『アコースティック・ナイト』コンサートを開催しています。
2010年5月16日、松本隆の作詞家生活40年記念コンサートに出演。
その際に「今の太田裕美があるのは松本隆のおかげ、今の松本隆があるのは太田裕美のおかげ」と冗談めかして発言しました。
2019年9月18日、乳がんの治療中であることを公表しました。
男性的なさっぱりした性格であると言われており、酒豪という噂には、本人は「皆でお酒を飲むときの楽しい雰囲気が好き」といい、
決して大酒を飲むわけではないと語っています。
2010年には自宅に太陽光発電のためソーラーパネルを設置。電力会社への売電契約を結び、
発電設備を「太田裕美発電所」と命名して所長に就任しました(笑)
ディスコグラフティーと共にお聴き頂ければ幸いです。
現在、僕や歌のパートナーの新二郎さんの大切な歌仲間であり大先輩でもある女性が癌と闘っています。
僕達は医師ではないので、彼女に対して出来る事に限りがあります。
そこで新二郎さんと相談して、お百度参りの代わりに、
「昭和の歌姫100人を歌う」と題して僕はPOPSと歌謡曲、新二郎さんは演歌を中心に、
昭和デビューの女性ボーカリストの歌を100人カヴァーし、彼女の完治を願いたいと思います。
癌の治療はとても辛いですが、現在の医療はかなり進歩しています。
どうか一日も早く完治しますように。
昭和の歌姫たちの懐かしいディスコグラフティーと共に、お聴き頂ければ幸いです。
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初めて聴いてくださった方へ。
改めまして、はじめまして。伸(nobu)と言います。
私のページに来て下さり、有難う御座います。
僕はもう10年以上前になりますが「喉頭癌(声帯にできる癌)」を患い、声を失いかけました。
その1年前に初めての癌を患い、再発からの転移でした。
定期健診を欠かさなかったお陰で、初期の段階で見つかり、
すぐに処置をして頂き助けて頂きました。
しかし、暫くの間、歌うどころか喋る事すらままならない状況になりました。
当時の私は、喋る事も仕事の一つだったため、
それはとても辛く悲しかったです。
もしかしたら、もう「声」と言うものには頼れないのでは?
そんな思いを持ちました。
声が出せなくたって目だって見える。耳だって聞こえる。
体だって自由に動く。
何だって出来るじゃないか!そんな風に自分に言い聞かせた時もありました。
医師の「ある程度までは声は戻るよ」と言う言葉を信じ
喉を使っても良いと言われてからは、リハビリをして
毎日、家の近所の日の落ちた船着き場に車を止めて
大好きな中島みゆきさんの曲や、徳永英明さんの曲を聴きながら声を出す練習をしました。
思うように声が出なくて悔しくて泣いて車を叩いた日もありました。
誰にも聞かれたく見られたくなかった。
だから車の中は僕のリハビリ室でした。
その甲斐あって、医師も驚くほど回復し、
現在では喋るだけでなく歌う事も出来るまでになりました。
確かに、以前の自分の声ではなくなりましたし
今でも1曲全てを声もかすれずに歌う事は難しい時もあります。
でも、大好きな歌が歌えます。
友人の医師達や支えてくれた周りの人達に心から感謝をしています。
そして無理だと言う僕に、何度ももう一度歌おうと強く勧めてくれた大親友にも!
そして2013年7月にまた、新たに疾患が見つかりました。
とても症例の少ない難病だと告げられ、同年10月には障害者となりました。その為、定期的に入院生活を強いられています。
明日はどうなるか解りません。
「負けたら終わり ではなく あきらめたら終わり」
「笑って生きるも一日、泣いて生きるも一日、どうせなら笑顔で」
この二つは私の座右の銘です。
世の中には、色んな病や悩みなどと闘っている人達が沢山いると思います。どうか諦めないで下さい。
私は大好きな歌を笑顔で歌ってここに載せて行きます。
ここには沢山の歌の上手な方々が掲載されています。
私の歌はその方々には程遠いものです。
でも、歌えるようになりました。
良かったら聴いてみて下さい。
そして何かの切っ掛けにして頂けたら嬉しいです。
ありがとうございました。
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