78年前の8月15日、海を渡った中国の地で終戦を迎えた市民がいます。日本が国策として推し進めた「満洲開拓団」の住民たちです。当時14歳だった女性の証言から開拓移民の過酷な現状が見えてきました。菅田恒子さん:
「何のために行ったかわからない、ひどいところだった」仙台市泉区に住む菅田恒子さん92歳。一家6人で満洲に渡ったのは終戦3年前の1942年。染物職人だった父・幸作さんが戦争により仕事を失ったことがきっかけでした。菅田恒子さん:
「親戚も反対したみたいだが仕事もないということで、いいことを聞かされたんでしょう。その話に乗って行ってしまった」
満洲に渡る前「ワンピースを買って着せてもらった」
1931年、日本が満洲事変を起こし支配下に置いた中国東北部の「満洲」。もともと、東北などの豪雪地帯から仕事や土地を求め自発的に移り住む「緩やかな」移住政策がとられていましたが、戦争が激しくなると性質が変わっていったと専門家は指摘します。東北学院大学 伊藤大介助教:
「(国内では)物資不足、物不足が顕著になってしまうので、そういった中で職業を変える“転業移民”を国は大々的に展開していくことになる。戦争にとって不要不急の職業の人たちを仙台などで集めて満洲に農民として送って日本の食料増産に役立たせようという動きがあった」自営業や職人たちを農家に転業させてまで満洲に移住させる政策を国は推し進めたのです。食料増産に加え、現地の実効支配を強める狙いがありました。当時の史料には移住者1人あたり最大90円、政府からは千数百円を支給するとの記載が。今でいえば100万円程度を手にしたことになります。菅田恒子さん:
「(満洲に)行くときに妹と私は河原町の菅原屋と言ったかな、そこでワンピースを買って着せてもらったのを覚えている」
「子どもを殺せ」終戦後の過酷な日々
仙台からの移住者が暮らした集落は、現在の黒龍江省にあり「仙台村」と呼ばれていました。土地や建物は現地の人から安く買い上げたものでした。終戦を迎えると、開拓団員は現地住民らの襲撃や略奪に遭い、菅田さんは兄・恒一郎さんを亡くしました。生き延びた人たちは、夜を待ち鉄路を歩いて逃げたと言います。菅田恒子さん:
「鉄橋を渡るときに雷が鳴っていて、雷の光で鉄橋を渡った。弟と妹の手を離さないようにして。小さい子どもがいる人はみんなに『殺せ』と言われるんですよ、逃げるときに子どもはお腹がすいているから泣く、泣かせると(気づかれて)襲撃されるから泣かせないようにと。おっぱいを押し付けて殺した人もいるんですよ」冬にはマイナス30度を下回る満洲の地。菅田さんの両親は、寒さと栄養失調で命を落としました。「喉が渇いたのでつららを食べたい」父・幸作さんは最期にそう話したと言います。菅田恒子さん:
「氷を食べたいと言われたんですが、そのときに私は取りに行かなかった…。その後に亡くなったので、うんと思いがある。死に水だったかもしれないから」
92歳の菅田さん「私は幸せだと思います」
きょうだい3人で帰国できたのは終戦翌年。しかし、間もなくして2歳下の弟・芳男さんも病で亡くなりました。菅田恒子さん:
「脊髄カリエスという病気になって。それで栄養も取らないといけないが、そのころ栄養なんてね」菅田恒子さん:「こうやって見ると少しはわかる」仙台村開拓団の事実を伝える資料はわずかしか残っていません。今は、3人いるひ孫の成長が楽しみだという菅田さん。過酷な経験を胸に秘めながら、平穏な日々を過ごしています。菅田恒子さん:
「苦労しているから少々の苦労は我慢できる。今は娘の家に入ってこうして生活している。私は幸せだと思います」菅田さんは、若い人たちに理解してもらうのは難しいのではないかと思い、これまで戦争体験を他の人に語ることはほとんどなかったという事です。戦争体験者がどんどん少なくなる中、自分の話が役に立つならと今回の取材に応じてくれました。
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Негізгі бет 「子どもがいる人は『殺せ』と言われた」満州にあった「仙台村」開拓団 苛烈を極めた逃避行“92歳女性の証言”
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