南京事件, by Wikipedia ja.wikipedia.o... / CC BY SA 3.0
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南京事件(ナンキンじけん)は、日中戦争(支那事変)初頭の1937年(昭和12年/民国26年)12月、日本軍が南京を占領した際、約2カ月にわたって多数の中国軍捕虜、敗残兵、便衣兵および一般市民を殺害、暴行、虐殺、強姦、略奪、放火したとされる事件。
歴史上、南京事件と称されるものが、1913年9月、1927年3月にあったが、南京事件というと通常は1937年の南京事件を指す。
戦後南京軍事法廷や極東国際軍事裁判で裁かれた。
事件の真相について、異なる見解が存在する。
長谷川啓之によれば、中国側は南京大虐殺や南京大屠殺(後述)と呼称しているが、事件の真相はいまだ不明であり、捕虜、敗残兵ないし便衣兵を殺害したのか婦女子も含むのか、どの程度の規模か、事件の規模、虐殺の存否、戦時国際法違反か否かの論争、犠牲者数をめぐる論争が存在しているという。
臼井勝美によれば、日本軍の占領後約1ヶ月間、南京は、無政府状態隣、城内だけでも1万以上の非戦闘員が殺され、略奪暴行事件は頻発し、また捕虜の集団殺害も実施されたと言われる。
波多野澄男・庄司潤一郎によれば、中支那方面軍は、上海戦以来の不軍紀行為の頻発から、南京陥落後における城内進入部隊を想定して、「軍紀風紀を特に厳粛にし」という厳格な規制策(「南京攻略要領」)を通達していた。
しか し、日本軍による捕虜、敗残兵、便衣兵、及び一部の市民に対して集団的、個別的な虐殺事件が発 生し、強姦、略奪や放火も頻発した。
日本軍による虐殺行為の犠牲者数は、極東国際軍事裁判にお ける判決では 20 万人以上(松井司令官に対する判決文では 10 万人以上)、1947 年の南京戦犯裁判 軍事法廷では 30 万人以上とされ、中国の見解は後者の判決に依拠している。
一方、日本側の研究 では 20 万人を上限として、4 万人、2 万人など様々な推計がなされている24。
このように犠牲者数 に諸説がある背景には、「虐殺」(不法殺害)の定義、対象とする地域・期間、埋葬記録、人口統計 など資料に対する検証の相違が存在している。
1937年11月、上海戦で中国軍を撃破した日本軍は、首都南京に向かい進撃を開始した。
10月29日、蔣介石は国防最高会議で遷都を説き、長期抗戦実施のため重慶に遷都し四川を抗敵の大後方とすることを明示し、11月20日、林森は、1000人余の官僚とともに龍興号に乗船し南京を離れ、26日に重慶に到着した南京の防衛か放棄かが討議され、唐生智が南京の死守を唱え、24日、国民政府は南京衛戎司令に唐を任命した。
南京は揚子江方面以外の三方面を完全に日本軍に包囲されていた。
唐は各部隊に陣地の死守を命じ、違反者は厳重に処分すると通達し、各部隊の所有船舶は全て第78軍長宋希濂が管理し、勝手な乗船渡江を禁じ、違反者は武力で制止するとした。
12月1日、上海派遣軍の南京攻略命令下達により、上海派遣軍は山田支隊、第十六師団、第九師団などをもって東方から、第一〇軍は第三師団先遣隊、第百十四師団、第六師団などをもって南方から前進を開始し、8日、南京城外の第一線防衛陣地を突破し、包囲の態勢を整えた。
12月7日早暁、蔣は宋美齢とともに廬山に向けて故宮飛行場を飛び立った。
9日までに外郭陣地は喪失し、烏龍山砲台、紫金山、雨花台が残った。
12月9日、松井は、和平開城の勧告を飛行機で散布した。
回答は翌10日正午句容街道上の歩哨線で受領するとした。
10日、武藤章参謀副長、中山寧人参謀等が中山門-句容街道上で午後1時まで待ったが軍使が姿を現さなかったため、午後1時、松井は総攻撃の命令を発した。
12日午後、唐は蔣から撤退命令を受け、午後5時、師長以上を集めて軍事会議を開き、蔣の撤退命令を読み上げ、各指揮官に夜6時から明朝6時までに南京を撤退するよう命じた。
日本軍に利用されないよう、重要建築物の放火破壊が始まり、第36師が中山北路に面する軍政部、鉄道部 (南京衛戎司令部)、交通部などを焼燬し、1時間以内に市内の主要な建築物は烈しい火と濃い煙に包まれた。
12日午後9時、唐は副指令羅卓英等とともに軍用小火艇で浦口に渡り脱出したため、残された軍人や市民は烏合の衆と化し、悲劇を生む一因になった。
山田支隊は烏龍山北側から南下し下関へ向かい、牛島支隊は南から北上し下関へ向かい、佐々木支隊は城北部の門を制圧しつつ前進し、13日午後に下関を占領した。
第十...
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