《 歌詞 》
屋島すでに 陥落 おちいりて
平家は 志度 シド浦に 退 しりぞきしも
またも源氏に追ひ迫られ
西を指してぞ 遁 のがれしが
寄る 方 かたなみのまにまに
さすらう平家の 末 まつ 路 ろこそ
無惨といふも 愚 おろかなれ
茲 ココに源氏の大将義経は
水陸の大軍を率い
長 なが 門 との国 奥 おい 津 づに来り
此度 コノタビこそは平家の一族を
鏖殺 おうさつせずんばやむまじと
きびしく味方をいましめて
合戦 いくさの 準備 よういに 忙 いそがはし
時こそ 来 キタれ 元暦 げんりゃく二年
三月二十四日の 卯 ウの刻に
源平両軍 船 ふな 出 でして
壇の浦にて落合ひしが
ここは名高き 速 はや瀬戸にて
而 シカも平家は 潮流 しおに 逆 さからひ
源氏は 潮流 うしおに 順 したがへば
其の 状 さま 宛然 さながらよそめには
すでに平家の 敗軍 まけいくさと
見ゆるばかりぞ不運なる
さばれ 船 ふな 合戦 いくさに 熟練 ことなれし
平家の将卒少しも騒がず
一千余 艘 そうを三段に分ち
エイヤエイヤの 櫓 ろ 拍子 びょうし 揃 そろへ
勢ひ鋭く漕ぎ寄する
源氏にありては紀井の国の住人
熊 くま 野 のの 湛増 たんぞうを先陣とし
金剛童子の旗押し立て
威風堂々突進す
続いて伊予の国の住人 河 こう 野 の 通信 みちのぶ
四国の 海 あま 部 べを率い
此の 外 ほか 兵船 ひょうせん三千余 艘 そう
平家の軍を 囲 かこまんと
あせり 競 きそひて進み 行 ュく
両軍 矢 ヤ 頃 ゴロに近づけば
戦端 せんたん 忽 タチマち 爰 ココに開け
一 いち 度 どに揚ぐる 鯨波 ときの声
磯打つ波の音もろとも
山に響きて物 凄 スゴし
しばしが程は 矢 や 合戦 いくさにて
互に勝敗ありつるも
射 いる矢の如き 速 はや 潮 しおに
押されて進む源氏の軍船
またゝくひまに敵軍の
真 まっ 只中 ただなかを突き破れば
船と船とは 接触 せっしょくし
敵も味方も入り乱れ
さしもに 濶 ひろき 早鞆 はやともの
瀬戸も船にて 覆 おゝはれて
落葉浮ぶる川波の
網 あ 代 じろに寄する如くなり
かゝりける時 新 しん中納言知盛は
船の 船首 みよしに突っ立ちて
味方の 兵共 ものどもも承れ
一門の運命この一戦にあり
心を 協 あわせ力を合せ
誓って敵を 撃 うち破れと
二 ふた 度 たび 三 ミ 度 タビ 呼 ヨバはったり
平家の将士等之を聞き
勇み立ちたる折しもあれ
満珠 マンジュ 干 かん 珠 じゅの 島間 しまあいより
進軍の太鼓 鼕 とう 々 とうと
源氏の 方 かたに鳴り渡り
白 しろ 地 じに黒の 笹 さゝ 竜胆 りんどう
打ったる旗を立て 連 つらね
勢ひ込んで漕ぎ 出 いだす
此の一団ぞ義経の
麾下 はたもとなりと知られける
やがて義経敵陣に乗近づけ
味方を 励 はげまし縦横無尽
薙 なぎつ払ひつ奮戦す
鬼 キ 神 ジン不思議の早 業 わざに
平家の全軍押崩され
また 盛 もり返す色もなし
能登ノ守 教 のり 経 つねは
此の有様を 遥 ハルカに見て
あれこそ九郎に紛れなし
いで引っ組んで討ち取らんと
味方の船を押分け押分け
義経の船に近づき寄り
ヤアそれなるは源氏の
大将義経なるか
我は 門脇 かどわき中納言 教 のり 盛 もりの 二男 じなん
能登ノ守 教 のり 経 つねなりと
云ふより早く 甲 かぶとを脱ぎ捨て
鎧の袖を引き 断 ちぎり
義経の船に 躍 おどり入る
源氏の武士共驚きあはて
教経に組み 縋 すがるを
蹴 け 倒 たおし 投 なげ 除 のけ獅子 奮迅 ふんじん
あわや義経に追ひ迫る
固 もとより義経 蹻捷 きょうしょう 飛鳥 ヒチョウの如し
忽ちヒラリと身を 跳 おどらし
二丈あまりも 隔 へだてつる
味方の船に飛び移り
莞爾 にっこと笑つて 在 おわしゝは
天 テン 狗 グの 業 わざにも 異 ことならず
剛勇無双の 教 のり 経 つねも
追はんとするに 翼 つばさなく
あゝ飛びたりな飛びたりなと
思はず知らず 感嘆 かんたんせり
斯 かかる 処 トコロに源氏の勇士
安芸 あきの太郎同じく次郎
教経の右左より組付けば
エイ汝等 死出 シデの供せよと
やにわに 二人 ふたりを両 腋 わきに引 挟 はさみ
逆 さか 巻 まく浪に飛入りて
姿は見えずなりにけり
さるほどに知盛は
能登ノ守の戦死を聞き
合戦 いくさも 最 モ 早 ハヤ 之 コレ 迄 マデなりと
急ぎ 御 み船に漕ぎ到り
女房達に打向ひ
只今 東男 あづまおとこを御覧ずべけれ
まづ 見 み 苦 ぐるしき物共は
海に投入れめされ候へと
おのれ 自 みづから 箒 ほうきを 把 とり
掃 はき 清 きよめてぞ帰られしが
遂に海に沈みて 亡 うせにけり
女 にょ 院 インはかくと 聞 きこし召され
騒がせ給ふ 御 み 気 け 色 しきなく
御 焼石 やきいしとみすゞりとを
左右 さうの 袂 たもとに入れ給ひ
西方 にしに向ひて 合掌 ガッショウし
静に 黙祷 もくとうあらせ給ふ
此 コノ 時 トキ大納言 時 とき 忠 ただの夫人
御側 おんそば近う 侍 はべりしが
いざ 御 おん道しるべ候べしと
ザンブと海中に飛入れば
あなやといふ 間 まも 痛 いたましや
女 にょ 院 いんも海に入らせ給へり
おくれ 奉 たてまつらじと 宮 きう 女 じょ 等 らも
手を取り合ひつ海に入る
折しも伊勢の三郎義盛
快 はや 舟 ぶねにて 走 はせ 来 キタり
海には 尊 とうとき方々の入らせ給ふぞ
懇 ネンゴろに救ひ 奉 たてまつれやと
義経の命を伝ふれば
女院をはじめ 奉 たてまつり
帥 すけの 典 てん 侍 じ其他の 女官 にょかん 等 ら
あはれ宗盛 父子 おやこまで
此処 ここ 彼処 かしこより救はれて
源氏の 方 かたへ送られしも
先帝のおん影のみは
いづこの雲にや 隠 かくれ給ひけん
拝 おがみし者ぞなかりける
落つべきものは皆落ちぬ
死すべき者は皆死しぬ
汐の 引 ひき 島 しま 小戸 おどの瀬戸
主 ぬしなき船の 淋 さびしげに
ゆられゆられて 去 いにしあと
しら波ならで白旗の
時めく世とはなりにけり
時めく世とはなりにけり
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田中 旭嶺
タナカ キョクレイ
職業 筑前琵琶演奏家
本名 田中 弥生
生年月日 明治39年 3月24日
出生地 熊本県
経歴
6歳頃から手ほどきを受け、
11歳にしてすでに師匠として教えるなど天才ぶりを発揮。
のち豊田旭穣に師事。昭和4年旭穣に随行して渡米。
20年以降は旭嶺会を主宰して後進の指導にあたった。
「仏御前」「壇の浦」「湖水渡り」などを得意とし、
また作曲も手がけ「新曲経正」などがある。
没年月日昭和53年 11月28日 (1978年)
出典:日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典(2010年刊)
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筑前琵琶歌の誕生と展開
江戸末期には、博多で興行的な琵琶の演奏が行なわれており、芸達者な盲僧たちが人気を集めていたという(『日本南国物語』)。筑前琵琶の創始者、橘旭翁(一丸智定、1848~1919)は福岡の盲僧頭の妙福の息子で、晴眼ながら盲僧となるが、明治4年(1871)に盲僧が廃止される。元来器用でさまざまな芸能に関心があった智定は、琵琶を手に盲僧の琵琶歌や八人芸などで寄席に出演し、巡業の芸能団に参加した。明治25年(1892)には鹿児島に半年間滞在して薩摩琵琶楽を習得し、楽器をはじめ奏法や節回しも薩摩琵琶歌から多くを採り入れて筑前琵琶歌を創始した。智定から琵琶を学んだ博多の芸者吉田竹子が東京に出て成功を収めると、自身も上京し、明治34年(1901)からは本格的に東京に居を移して普及に努めた。その前年には逵邑玉蘭(要吉)の手によって27曲分の歌詞が新作され、時代にふさわしい作品が整えられた。智定は、橘旭翁を名乗って旭会を設立し、家元制度取り入れて多くの弟子を育て、明治末までには薩摩琵琶と並んで全国的な筑前琵琶の流行を見るに至った。才能を見込んで養子にした橘旭宗(那珂郡三宅村出身・吉村六郎、1892~1967)と協力して、晩年には、五弦の筑前琵琶を創案した。(*著者註. 橘会現家元に確認したところ、橘旭宗は初世旭翁の実子とのことである)。旭翁の作品としては、四弦琵琶用に《義士の本懐》《湖水渡》などが、五弦琵琶用に《長良秋風》《筑後川》《壇ノ浦》などがある。段物は少ないが、《粟津が原》《宇治川》などがある。
旭翁没後、実子一定が二世旭翁となり、二世もまた、《西郷隆盛》《大石主税》(いずれも五弦用) などたくさんの作品を残した。(中略)
いっぽう、橘旭宗は大正9年(1920)に旭会と袂を分かって橘会を設立し、新たな節回しや奏法を研究して、楽譜を整理し、《茨木》《安宅》《隅田川》など、多くの作品を作った。(以下略)
出典:日本琵琶楽協会HP
Негізгі бет Музыка 筑前琵琶『壇ノ浦』田中旭嶺 小山觀翁撰集
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